藤原氏 覚え方。 中世社会の成立

【藤原道長の摂政就任の語呂合わせ】年号(1016年)の覚え方を紹介!【おすすめ5選】

藤原氏 覚え方

『前賢故實』より 北家の祖となったのは、不比等の次男の 房前(ふささき)です。 この房前はなかなか能力のある人で、嫡流ではないにも関わらず割と出世したのですが、房前以後の北家はあまり奮いませんでした。 冬嗣以降は北家が権力独占 北家が力を持ち始めるのは、平安時代に入ってからです。 房前以降はイマイチパッとしなかった北家ですが、藤原冬嗣の代から台頭し始めます。 そのきっかけとなったのが、。 冬嗣はの信頼を得ており、側近として力をつけました。 それ以前は式家のが権力を握っていたのですが(妹のは平城上皇のお気に入り)、が薬子の変で敗れると形勢逆転。 北家が一気に隆盛することになります。 『』で藤原氏の歴史が冬嗣の代から語られ始めるように、北家の栄華はここから始まったと言っていいでしょう。 その後、歴史上に名を残す「藤原」といったら北家。 冬嗣の子のや、中期に登場する道長らも全員北家の人々です。 藤原氏は現代に至るまで途切れることなく続いていますが、旧華族の五摂家である近衛家、九条家、鷹司家、一条家、二条家、の5つの家も藤原北家の流れを汲んでいます。 これらは鎌倉時代以降に分かれた家ですが、つまり北家はいくつもの家に分かれながらも脈々と続いている。 今でも名門として残っているというわけです。 藤原武智麻呂像(栄山寺蔵) 藤原南家の祖は 武智麻呂。 武智麻呂は不比等の長男で、嫡流であったため優遇されました。 嫡男としてかしずかれた武智麻呂は最終的に正一位・左大臣にまでなりますが、南家の勢いはそう長くは持ちませんでした。 仲麻呂の乱 南家衰退の原因はいろいろあるとは思いますが、一番目立つのが 仲麻呂の乱でしょう。 仲麻呂が道鏡と対立した事件で、軍事力を持って道鏡を排除しようと目論みますが、官軍に倒され敗退。 この流れで南家は衰退していきます。 南家で活躍した人物は? 衰退した、といっても家が絶えてしまったわけではないので、その後も南家の流れは続いています。 仲麻呂の乱以降藤原氏のトップに立つことはなかったものの、活躍した人物はいました。 それが、平安末期に登場する です。 信西は南家貞嗣流の出で、父は藤原実兼。 信西の出家前の名は藤原(高階)通憲(ふじわら/たかしなのみちのり)といいます。 南家の巨勢麻呂(こせまろ)の子孫が学者の家として続いており、その流れにあったのが信西でした。 信西といえば、とともに勢力を誇った人物ですね。 藤原宇合『前賢故実』より 式家の祖は不比等の三男・ 宇合(うまかい)です。 宇合は参議・正三位まで昇りますが、疫病にかかって亡くなります。 44歳で亡くなりますが、しかし四兄弟中もっとも長生きでした。 南家の次に力を持つ 不比等嫡流の南家はあっさりと数代で勢いを失ってしまいますが、次に力を持ったのはこの式家でした。 宇合の子である 広嗣・ 良継・ 百川(ももかわ)らが有名ですね。 彼らは 称徳天皇(女性天皇で未婚だったため、後嗣を誰にするかで議論になった)の次に自分たちの息のかかった 光仁天皇を擁立することに成功し、以後権力の中枢に居座り続けます。 宇合の三男・ 清成の子・ 種継は桓武天皇の側近でもありました。 清成は無位無官で終わりましたが、種継は桓武天皇に気に入られていたおかげで左大臣にまで出世。 長岡京の造営の一切も任されていました。 薬子の変以後没落 式家の勢いもそう長くは続きませんでした。 種継の子の 薬子は平城天皇の尚侍となり寵愛を受け、兄の 仲成とともに権力を持ちますが、宮女でありながら政治に介入し、兄ともども権力をほしいままにします。 平城天皇が早々に譲位して上皇になると、兄妹は上皇の復位を望んで(自分たちが専横し続けるため)平城京への遷都を画策。 結局嵯峨天皇が仲成を捕らえ、薬子の官位は剥奪。 薬子は服毒自殺し、仲成も死に追いやられます。 このとき嵯峨天皇の側近として活躍していたのが北家の冬嗣。 この変をきっかけに式家は没落していき、反対に名をあげた冬嗣の家は一気に隆盛することになります。 藤原武智麻呂と藤原麻呂(『前賢故実』より) 最後は京家です。 祖は不比等の四男である 麻呂。 南家・北家・式家は歴史のどこかでは名を聞いたこともある人も多いと思いますが、この京家はもっとも知名度が低く、それに比例するように目立った活躍もない家です。 麻呂が四兄弟の中で末弟であり、兄たちに比べて子どもにあまり恵まれなかったこともパッとしなかった理由でしょう。 この麻呂、実は両親が異母兄妹同士だったといわれています。 母とされる 五百重娘(いおえのいらつめ)は藤原鎌足の娘で、もともとは の夫人のひとり。 天武天皇没後に兄・不比等の妻となり、麻呂をもうけたのです。 権力をあまり欲さなかったのも、この出自のためだったとか。 麻呂自身、疫病で早死にし、子女らも早世したために一族はまったく奮いませんでした。 京家出身の著名人 奮わなかったとはいえ、一族の中には有名になった人物もいます。 政治面では活躍する場がありませんでしたが、文化面では才能に秀でた人物が何人もいます。 たとえば、歌人の (ふじわらのおきかぜ)。 のひとりで、 「寛平后宮歌合」や「亭子院歌合」 など、醍醐朝の歌合によく参加していた人物です。 『』以下の勅撰集に何首も入集しており、醍醐朝を代表する歌人のひとりでした。 また、琵琶に秀でた 藤原貞敏や、舞楽や和歌で知られる 藤原忠房も京家の流れにありました。

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藤原氏

藤原氏 覚え方

藤原道長の子孫について。 藤原氏ってどうなったの? 道長の代で栄華を極めた藤原氏でしたが、その繁栄は長くは続きませんでした。 平安時代の一族内の政争を経て、摂政・関白は藤原氏の中でも「 藤原北家(ほっけ)」と呼ばれる家が代々担うことが定着していきます。 道長・頼通も藤原北家の嫡流でした。 藤原道長の外孫に当たる天皇は後一条・後朱雀・後冷泉天皇の3人。 息子の頼通は3人が幼いころは摂政として、成人してからは関白として、実に約50年政治の実権を握ります。 頼通も「摂関政治」のお約束として、娘を天皇に嫁がせますが、皇子は誕生しませんでした。 ここから少しずつ、藤原氏の「計算」が狂っていきます。 後冷泉の後を継いだ 後三条天皇の場合、父は後朱雀天皇、母は三条天皇の娘です。 父方・母方ともに祖父が藤原氏ではないという天皇は、実に約170年ぶりのことでした。 さて、後三条天皇は 摂政・関白にまかせず、みずから政治を行おうと意欲的でした。 後を継いだ白河天皇も父と同様に政治を行い、子どもの堀河天皇に譲位したのちも天皇の後見役として政治の実権を担います。 御所につくった「院庁(いんのちょう)」という役所で政治を行ったので、こうした体制を「 院政」と呼びます。 藤原氏が「 天皇の母方のおじいさま」の地位を利用したのに対し、院政はズバリ「 天皇のお父さま」の地位を利用したわけです。 院政では摂政・関白に頼らず、中・下級貴族を重用しました。 白河天皇以降、鳥羽、後白河、後鳥羽の各天皇が院政を行いますが、実はこの間も摂政・関白には道長・頼通の子孫がついています。 そして院政以後、武士の世の中へと移り変わり、藤原氏は道長の時代のような権力は望めなくなりますが、摂政・関白の職は明治維新まで、 ある例外を除いては道長・頼通の子孫たちが就きました。 その「例外」こそ、 豊臣秀吉とその甥(おい)の秀次です。 ただ、秀吉も関白・近衛前久(さきひさ)(近衛家は藤原氏五摂家のひとつ。 あとで詳しく述べます)の養子となってから関白に就いています。 秀吉は藤原氏とは縁もゆかりもありませんが、そんな彼でも形だけは「 摂政・関白は藤原氏から」という先例を守ったと言えます。 藤原氏は平安時代末から鎌倉時代にかけて、「 五摂家」という「 摂政・関白を出す家」を決め、それぞれの家の名を名乗るようになるのです。 実は藤原北家の嫡流の内部で摂政・関白をめぐる争いが起こったり、職に就いた者が若くして亡くなるなどゴタゴタがありました。 そこで鎌倉幕府も介入し「 今後、摂政・関白を出す『家』を固定しよう」ということになったようです。 跡継ぎの男子が長い間生まれず、 弟の藤原頼長を養子にしていたのですが、40歳を過ぎてから男子が生まれたため、頼長と養子縁組を解消して息子にあとを継がせたいと思うようになります。 この兄弟の対立に加え、皇室でも兄・崇徳上皇と弟・後白河天皇が政治の主導権を巡って対立し、崇徳と頼長、後白河と忠通がそれぞれ結びつき、1156年に 保元の乱が起こります。 後白河・忠通が勝利し、頼長は乱のさなかに命を落とします。 忠通のあとは、3人の息子たち長男・基実、二男・基房、三男・兼実とそれぞれの子孫がそのときどきの状況に応じて摂政・関白の職を歴任します。 院政から平氏政権、鎌倉幕府と権力の中枢が移りゆくなかで、 摂政・関白の政治的な力は低下します。 もはや「天皇の母方のおじいさま」かどうかにかかわらず、藤原北家嫡流の世襲制とされるようになりました。 忠通のあと、摂政・関白は兄弟とその子どもたちの間で次のように引き継がれます。 世襲制になり、継ぐべき子が幼い場合は兄弟でその職をまわしていくのは自然のなりゆきでしょう。 スポンサードリンク その過程で、 ・長男の基実の家は「近衛家」 ・次男の基房の家は「松殿家」 ・三男の兼実の家は「九条家」 このように呼ばれるようになります。 それぞれ、邸宅を構えた場所にちなんでいます 長男の家である「 近衛家」が藤原北家の嫡流といえるでしょう。 また「 松殿家」からはふたりの摂政・関白を出しましたが、その後は摂政・関白を出すことなく衰退し、戦国時代には途絶えてしまいます。 一方、鎌倉時代の末に 近衛家からは 鷹司家、 九条家からは 一条家と 二条家が分家します。 鎌倉時代を生きた藤原氏の子孫たちは、摂政・関白の職の継承がスムーズにいかないと、分家して摂政・関白になれる家を増やしたようですね。 こうして、平安時代末から鎌倉時代を通じて「 摂政・関白を出す5つの家」が固定化されていきました。 ・近衛家 ・鷹司家 ・九条家 ・一条家 ・二条家 この5つの家は「 五摂家」と呼ばれます。 「現代の藤原氏」こと五摂家の子孫はどうなったの? 豊臣秀吉・秀次を除き、明治維新に廃止されるまで、一貫して摂政・関白は五摂家の人間のみ就く事になっていました。 明治時代以降は、天皇を補佐する役目として皇族が摂政に就くことが皇室典範で定められています。 昭和天皇は皇太子時代、父・大正天皇の摂政でした。 明治維新後、五摂家の当主は、華族の中でも一番上の爵位である「 公爵」になっています。 ここからは、 現代の五摂家の概要をざっと紹介します。 【近衛家】 日中戦争・太平洋戦争中の総理大臣、近衛文麿が有名ですね。 彼は30代目の当主です。 熊本藩主細川家の18代当主である細川護煕元首相は、文麿の孫に当たります。 近衛家の現当主は近衛忠煇氏。 細川氏の実弟で、細川家から近衛家に養子に入りました。 本来、文麿の息子・文隆が文麿の次の当主となるはずでしたが、陸軍中尉として満州に渡り、戦後シベリアの収容所で亡くなったためです。 近衛文隆は劇団四季のミュージカル「異国の丘」の主人公のモデルとしても知られています。 【鷹司家】 現当主の鷹司尚武氏は伊勢神宮の大宮司です。 先代当主・鷹司平通には子がなかったため、尚武氏を大給松平家(松平<徳川>家の庶流)から養子に迎えています。 鷹司平通の妻が昭和天皇の三女・孝宮和子内親王であることから、年配の方には「鷹司和子」の名で鷹司家の名前を覚えている方も多いと思います。 戦後、華族制度が廃止され、旧五摂家の嫡男とはいえ皇族以外の平民で交通博物館勤務のサラリーマンに、皇族が嫁いだということで話題になりました。 【九条家】 九条家の当主は九條道弘氏。 平安神宮の宮司です。 また、藤原氏の末裔が集まる「藤裔会」の会長も務めています。 藤裔会は毎年、秋に藤原氏の氏神である春日大社に集まっていて、代々九条家の当主が会長を務めるそうです。 【一条家】 一条家の当主は弁護士の一條實昭氏。 2014年6月に亡くなられた天皇陛下のいとこ・桂宮さまの学習院初等科から高等科までの先輩にあたり、葬儀の際にも司祭長を務めたということです。 【二条家】 二条家の当主は二条基敬氏。 現在は神官・実業家とのことです。 戦後、華族制度がなくなり、五摂家の人々は「一般の人」となりました。 ただ、大名家や皇族との婚姻関係の影響は現在でもあるようですね。 ところで、 五摂家以外にも「藤原氏」は存在します。 西園寺家、花山院家、武者小路家、飛鳥井家・・・ 道長の子孫とは異なる系譜ですが、みな藤原氏です。 明治・大正期に首相を2度務めた 西園寺公望は、五摂家に次ぐ格式を持つ「 清華家」の一つ。 西園寺家は北家の支流に当たります。 武者小路と聞けば、作家の武者小路実篤。 武者小路家もまた北家の支流で、上から4番目の「 羽林家」という格式を誇ります。 (明治維新まで、格式によって朝廷で就ける最高の官職が決まっていました)。 ちなみに 藤原氏の氏神である春日大社の現宮司さんは、花山院弘匡氏。 この姓である 花山院家は西園寺家と同様「清華家」の格式を持っていました。 1000年以上連綿と続いてきた藤原氏。 歴史のうねりの中で、時には権力の中枢として、時には武家勢力に翻弄されながらも生き続けてきた「生命力」には、感動すら覚えます。 スポンサードリンク この記事のまとめ というわけで今回は、 藤原道長の子孫やその後の藤原氏について解説してきました。 藤原道長の死後の藤原氏は明治維新に至るまで、摂政、関白の地位を受け継いではいるのですが、その政治的な影響力は院政や武士の台頭により、以前ほど強くはありませんでした。 また、藤原氏は鎌倉時代になると「 五摂家」に分裂し、これに含まれる家だけが摂政、関白になれるという取り決めがなされました。 この五摂家の子孫の方々が藤原道長の子孫でもあり、いずれの家も現在に至るまでその血筋を受け継がれています。 ちなみに、以下の記事では 藤原道長の家族について解説しています。 この家族がいたからこそ道長は栄華を極められたと言えそうですね。 興味があればご覧になってみて下さい。 常々、親族が会して話しがでますのが、 藤原に関することでございますが、 今の私どもにとっては、どうでも良い事のようで、それ程気にも止めておりませんでした。 この連休に、平成天皇がご退位なせれた事から、 また、話しにでてまいりましたのが、 藤原氏の事でございました。 話の流れが、ここに書かれてある事と、似たような事でした。 母方の祖父から伝わり本家を、継いだ叔母の話でもあります。 太宰府天満宮である事や、先祖の方々が、宮中なのか、太宰府天満宮なのかに向かわれた事、 祖父は、 平成天皇が、ご成婚の時に、御陵にご参拝された御陵に携わったり、宮司でもあったりしたようです。 よく、御国から御給料頂いてたこと、 戦争で、家系図や、尺など焼けてしまっだとの事。 この御陵の、後ろの方に石碑もございますが、 本来は、島本のようです。 石碑には、島本と、記されております。 いつから、島元になったかは、定かでございません。 先祖から伝わる石碑には、変わりないのですが。 幼い時に、聞かされた記憶などから、全くの作り話には思えなくてメール致しました。

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藤原氏の覚え方

藤原氏 覚え方

天皇の覚え方• 天皇の覚え方 入試問題によく出る天皇を一覧にしました。 ただし、入試問題に出る可能性のある全ての天皇を掲載したことを保証するものではありません。 天皇の覚え方のコツですが、「名前」と「やったこと」と一緒に「キャラクターの絵」も合わせて覚えてください。 「キャラクターの絵」があるだけで、大分覚えやすくなっているはずです。 古墳時代 雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)[生没年不詳] 第21代天皇(在位:? 年 -? 幽霊(「ゆう」れい)っぽいキャラクター、雄略天皇です。 中国の南朝へ朝貢した「倭の五王」のうち「武」は雄略天皇のことだと考えられています。 継体天皇(けいたいてんのう)[450年? - 531年? ] 第26代天皇(在位:507年? - 531年? ケータイ電話のキャラクター、継体天皇です。 継体天皇の治世の時に百済からの五経博士が日本に儒教を伝え、「任那四県」の割譲、筑柴国造磐井の乱がありました。 欽明天皇(きんめいてんのう)[510年? - 571年? ] 第29代天皇(在位:539年? - 571年? 菌(「きん」)を保持していそう、目(「め」)に特徴があるキャラクター、欽明天皇です。 欽明天皇の頃に、百済より仏教が伝来し、任那が滅亡しました。 飛鳥時代 崇峻天皇天皇(すしゅんてんのう)[? 年 - 592年] 第32代天皇(在位:587年 - 592年)。 寿司っぽいキャラクター、崇峻天皇です。 蘇我馬子と仲が悪く、馬子の命令を受けた馬子の部下に殺害されました。 推古天皇(すいこてんのう)[554年 - 628年] 第33代天皇(在位:592年 - 628年)。 おたまじゃくしのキャラクター、推古天皇です。 初めての女性天皇です。 厩戸皇子(推古天皇の甥)と、蘇我馬子が推古天皇を補佐しました。 舒明天皇(じょめいてんのう)[593年 - 641年] 第34代天皇(在位:629年 - 641年)。 魔女っぽいキャラクター、舒明天皇です。 百済大寺を創建しました。 これは、後の大官大寺です。 皇極天皇(こうぎょくてんのう)[594年 - 661年] 第35代天皇(在位:642年 - 645年)。 黄色い玉(黄玉:こうぎょく)のキャラクター、皇極天皇です。 645年の乙巳の変の直後に孝徳天皇に在位を譲りました。 孝徳天皇(こうとくてんのう)[596年 - 654年] 第36代天皇(在位:645年 - 654年)。 黄(「こう」)、戸(「と」)、「ク」マなキャラクター、孝徳天皇です。 645年の乙巳の変の後に即位しました。 中大兄皇子を皇太子として政治改革(大化の改新)を推進しました。 斉明天皇(さいめいてんのう)[594年 - 661年] 第37代天皇(在位:655年 - 661年)。 「サイ」の足とツノを持ち、目(「め」)に特徴があるキャラクター、斉明天皇です。 大化の改新を挟んで、皇極天皇が再度天皇の座につき、斉明天皇となりました。 一度退位した天皇が再び天皇の座につくことを「重祚(ちょうそ)」といい、歴史上重祚した天皇はこの斉明天皇と、奈良時代の称徳天皇の二人だけです。 天智天皇(てんじてんのう)[626年 - 671年] 第38代天皇(在位:668年 - 671年)。 乙巳の変で中臣鎌足とともに蘇我氏を滅ぼし、大化の改新で政治改革を行った中大兄皇子が、近江大津宮で即位して天智天皇となりました。 天武天皇(てんむてんのう)[631年? - 686年] 第40代天皇(在位:673年 - 686年)。 天智天皇の弟です。 672年の壬申の乱で天智天皇の子である大友皇子に勝利した大海人皇子が、翌年飛鳥浄御原宮で即位して天武天皇になりました。 八色の姓によって天皇を中心とした新たな身分秩序を定めました。 日本最初の鋳造銭貨である富本銭は天武天皇の時代に鋳造されました。 持統天皇(じとうてんのう)[645年 - 703年] 第41代天皇(在位:690年 - 697年)。 天智天皇の娘です。 即位式を行わずに政治を執る「称制」を行っ(686年 - 689年)たあと天皇となりました。 飛鳥浄御原令を施行し、庚寅年籍で班田収授を軌道にのせ律令国家を確立させ、藤原京に遷都しました。 奈良時代に作成された歴史書『日本書紀』には持統天皇の時代までの歴史が記されています。 文武天皇(もんむてんのう)[683年 - 707年] 第42代天皇(在位:697年 - 707年)。 「文」章を書く筆の触角、足が6本で虫(「む」し)っぽいキャラクター、文武天皇です。 701年に日本で初めての本格的な律令である大宝律令が完成し、翌年公布しています。 藤原宮子との間に子(聖武天皇)が生まれました。 元明天皇(げんめいてんのう)[661年 - 721年] 第43代天皇(在位:707年 - 715年)。 持統天皇の妹。 元明天皇の治世の時に皇朝十二銭の端緒である和同開珎が作られました。 奈良に都を移して平城京としました。 奈良時代 元明天皇(げんめいてんのう)[661年 - 721年] 第43代天皇(在位:707年 - 715年)。 持統天皇の妹。 元明天皇の治世の時に皇朝十二銭の端緒である和同開珎が作られました。 奈良に都を移して平城京としました。 聖武天皇(しょうむてんのう)[701年 - 756年] 第45代天皇(在位:724年 - 749年)。 「聖」なる虫(「む」し)のキャラクター、聖武天皇です。 740年の藤原広嗣の乱の後、平城京から恭仁京、難波京、紫香楽宮の順に遷都を行った後、再び平城京に遷都しました。 国分寺建立の詔を出して全国に国分寺・国分尼寺などを建立させました。 国分寺の中心をなす「総国分寺」として東大寺を建立しました。 大仏造立の詔を出して東大寺に大仏を作らせました。 孝謙天皇(こうけんてんのう)[718年 - 770年] 第46代天皇(在位:749年 - 758年)。 聖武天皇の娘です。 752年に東大寺で大仏開眼供養が、聖武太上天皇、光明皇太后も参列して盛大に行われました。 淳仁天皇(じゅんにんてんのう)[733年 - 765年] 第47代天皇(在位:758年 - 764年)。 藤原仲麻呂に後ろだてしてもらい、仲麻呂に恵美押勝の名を与えました。 この頃、孝謙上皇が道教を寵愛するようになっており、恵美押勝がこれを諫めましたが、孝謙上皇は聞かず、恵美押勝は孝謙上皇、道教らに対して764年に乱を起こしました(恵美押勝の乱)が鎮圧されました。 称徳天皇(しょうとくてんのう)[718年 - 770年] 第48代天皇(在位:764年 - 770年)。 恵美押勝の乱後、淳仁天皇を廃位させ、孝謙上皇がもう一度天皇になり、称徳天皇と称しました。 一度退位した天皇が再び天皇の座につくことを「重祚(ちょうそ)」といい、歴史上重祚した天皇はこの称徳天皇と、飛鳥時代の斉明天皇の二人だけです。 764年に世界最古の現存印刷物である百万塔陀羅尼を作らせました。 平安時代 桓武天皇(かんむてんのう)[737年 - 806年] 第50代天皇(在位:781年 - 806年)。 784年に平城京から長岡京に移すが、遷都を主導していた藤原種継が暗殺され、犯人と疑われた早良親王を処罰したところ、相次ぐ災難が発生し、陰陽師に祟りだといわれ、和気清麻呂にも勧められ794年に平安京へ都を移しました。 班田期間を6年1班から12年1班に改め、班田収授を奨励しましたが、効果は僅かでした。 雑徭を60日から30日に改め、公民の維持に努めましたが、効果は僅かでした。 平城天皇(へいぜいてんのう)[774年 - 824年] 第51代天皇(在位:806年 - 809年)。 天皇を辞して太上天皇となった後、平城遷都を主張し、藤原薬子と結び嵯峨天皇と対立しましたが、810年に薬子の変で敗れて出家しました。 嵯峨天皇(さがてんのう)[786年 - 842年] 第52代天皇(在位:809年 - 823年)。 810年の薬子の変で平城太上天皇・藤原薬子を破りました。 文化秀麗集という勅撰漢詩集を作らせました。 弘仁式という律令の保管のための法令集を作成させました。 公営田・勅旨田の設置を行いました。 平安京内の警察や裁判などを職務とする検非違使を設置しました。 藤原冬嗣を蔵人頭に任じました。 仁明天皇(にんみょうてんのう)[810年 - 850年] 第54代天皇(在位:833年 - 850年)。 仁明天皇のとき、清原夏野らによって編纂された『令義解』が施行されました。 清和天皇(せいわてんのう)[850年 - 881年] 第56代天皇(在位:858年 - 876年)。 清和天皇の時に貞観格式が編纂されました。 宇多天皇(うだてんのう)[867年 - 931年] 第59代天皇(在位:887年 - 897年)。 藤原基経を関白に任じようとした際、阿衡の紛議を起こされました。 醍醐天皇(だいごてんのう)[885年 - 930年] 第60代天皇(在位:897年 - 930年)。 摂関を置かずに親政を行いました。 左大臣を藤原時平、右大臣を菅原道真としましたが、両者が対立し、901年に菅原道真は大宰府に左遷されました。 902年に延喜の荘園整理令を発令しました。 914年に三善清行が醍醐天皇に意見十二箇条を提出しました。 朱雀天皇(すざくてんのう)[923年 - 952年] 第61代天皇(在位:930年 - 946年)。 朱雀天皇の時代には、藤原忠平が摂関として取り仕切っていました。 村上天皇(むらかみてんのう)[926年 - 967年] 第62代天皇(在位:946年 - 967年)。 当初、藤原忠平が摂関として取り仕切っていましたが、忠平の没後は摂関を置かずに親政を行いました。 村上天皇の時代には皇朝十二銭の最後である乾元大宝が発行されました。 村上天皇の時代に2番目の勅撰和歌集である『後撰和歌集』が編纂されました。 一条天皇(いちじょうてんのう)[980年 - 1011年] 第66代天皇(在位:986年 - 1011年)。 一条天皇の時代に3番目の勅撰和歌集である『拾遺和歌集』が編纂さましれた。 後一条天皇(ごいちじょうてんのう)[1008年 - 1036年] 第68代天皇(在位:1016年 - 1036年)。 藤原道長の外孫。 後朱雀天皇(ごすざくてんのう)[1009年 - 1045年] 第69代天皇(在位:1036年 - 1045年)。 藤原道長の外孫。 後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう)[1025年 - 1068年] 第70代天皇(在位:1045年 - 1068年)。 藤原道長の外孫。 後三条天皇(ごさんじょうてんのう)[1034年 - 1073年] 第71代天皇(在位:1068年 - 1072年)。 宇多天皇以来170年ぶりに藤原氏を外戚としない天皇。 違法荘園の整理のために1069年に延久の荘園整理令を発布し、その審査を行う機関として記録荘園券契所を設置しました。 白河天皇の父親です。 白河天皇(しらかわてんのう)[1053年 - 1129年] 第72代天皇(在位:1072年 - 1086年)。 父親は後三条天皇。 六勝寺のひとつである「法勝寺」を建てました。 院政を始めるにあたり、堀河天皇を即位させました。 1086年から上皇となり、院政を始めました。 白河上皇は本格的な院政を最初に始めた人です 堀河天皇(ほりかわてんのう)[1079年 - 1107年] 第73代天皇(在位:1086年 - 1107年)。 父親は白河上皇。 白河天皇が院政を始めるにあたり即位させました。 善政を行い「末代の賢王」と呼ばれました。 六勝寺のひとつである「尊勝寺」を建てました。 鳥羽天皇(とばてんのう)[1003年 - 1156年] 第74代天皇(在位:1107年 - 1123年)。 六勝寺のひとつである最勝寺を建てました。 崇徳天皇(すとくてんのう)[1119年 - 1164年] 第75代天皇(在位:1123年 - 1141年)。 上皇になった後の1156年に保元の乱で後白河天皇と争って敗れました。 後白河天皇(ごしらかわてんのう)[1127年 - 1192年] 第77代天皇(在位:1155年 - 1158年)。 1156年に保元の乱で崇徳上皇を破りました。 上皇になった後、御所として三十三間堂が造営されましたが、その三十三間堂を本堂とする寺院を蓮華王院と言います。 (平安時代末期当時にとっての)現代風の歌謡である今様を愛好していました。 高倉天皇(たかくらてんのう)[1161年 - 1181年] 第80代天皇(在位:1168年 - 1180年)。 平清盛の娘を中宮(妻)とし、安徳天皇が生まれました。 安徳天皇(あんとくてんのう)[1178年 - 1185年] 第81代天皇(在位:1180年 - 1185年)。 高倉天皇と、平清盛の娘との間に生まれた子。 鎌倉時代 後鳥羽天皇(ごとばてんのう)[1180年 - 1239年] 第82代天皇(在位:1183年 - 1198年)。 1198年から上皇となり院政を行いました。 1205年に藤原定家に『新古今和歌集』を作成させました。 1221年に承久の乱で北条義時と争いましたが、、敗れ、隠岐へ流されました。 後嵯峨天皇(ごさがてんのう)[1220年 - 1272年] 第88代天皇(在位:1242年 - 1246年)。 後深草天皇(ごふかくさてんのう)[1243年 - 1304年] 第89代天皇(在位:1246年 - 1260年)。 父母が自身より弟の亀山天皇を寵愛したため不満を抱き、やがて後深草系の持明院統と亀山系の大覚寺統との対立が生じるようになりました。。 亀山天皇(かめやまてんのう)[1249年 - 1305年] 第90代天皇(在位:1260年 - 1274年)。 大覚寺統の祖。 兄の後深草天皇を差し置いて父母から寵愛され、やがて亀山系の大覚寺統と後深草系の持明院統との対立が生じることとなりました。 後醍醐天皇(ごだいごてんのう)[1288年 - 1339年] 第96代天皇(在位:1318年 - 1339年)。 大覚寺統。 鎌倉幕府の力で天皇となりました。 自らの立場の弱さに不満を持ち鎌倉幕府打倒を計画しました。 1324年に後醍醐天皇の最初の倒幕計画である「正中の変」と呼ばれる事件がありましたが、事前に発覚して失敗しました。 1331年に後醍醐天皇の次の倒幕計画である「元寇の変」と呼ばれる事件がありましたが、事前に発覚して失敗し、後醍醐天皇は隠岐へ流されました。 1333年に隠岐から脱出し、悪党などを味方に付けて幕府を倒しました。 建武の新政 後醍醐天皇(ごだいごてんのう)[1288年 - 1339年] 第96代天皇、および南朝の初代天皇(在位:1318年 - 1339年)。 鎌倉幕府滅亡後の1333年に建武の新政を始めました。 天皇親政の象徴として大内裏造営計画を行いますが、建武の新政が短期間で破綻したため実行されませんでした。 二条河原の落書で建武の新政を批判する落書が書かれました。 足利尊氏と対立し吉野に逃れて抵抗を続けました。 この皇統が南朝となります。 室町時代 後醍醐天皇(ごだいごてんのう)[1288年 - 1339年] 第96代天皇、および南朝の初代天皇(在位1318年 - 1339年)。 足利尊氏と対立した後醍醐天皇は吉野に逃れて抵抗を続けました。 その皇統が南朝となりました。 光明天皇(こうみょうてんのう)[1322年 - 1380年] 北朝第2代天皇(在位:1336年 - 1348年)。 北朝・南朝の分裂は足利尊氏が後醍醐天皇に対抗して光明天皇を擁立したことに始まります。 後亀山天皇(ごかめやまてんのう)[? 年 - 1424年] 南朝最後の天皇(在位:1383年 - 1392年)。 1392年に足利義満の説得を受け南北朝の合体を実現しました。 後小松天皇(ごこまつてんのう)[1377年 - 1433年] 南北朝合体時の北朝の天皇(在位:1382年 - 1412年)。 安土桃山時代 正親町天皇(おおぎまちてんのう)[1517年 - 1593年] 第106代天皇(在位1557年 - 1586年)。 織田信長と石山本願寺の争いの講和を仲介しました。 江戸時代 後水尾天皇(ごみずのおてんのう)[1596年 - 1680年] 第108代天皇(在位1611年 - 1629年)。 1627年に紫衣事件を起こしました。 1629年に幕府の同意なく明正天皇に譲位しました。 明正天皇(めいしょうてんのう)[1624年 - 1696年] 第109代天皇(在位:1629年 - 1643年)。 徳川和子の子。 後水尾天皇が幕府の同意を得ずに明正天皇に譲位しましたが明正天皇は徳川秀忠の娘の徳川和子の子ということもあり、幕府はこれを追認しました。 1634年には徳川家光が将軍の権威を示すために明正天皇のもとに軍勢を率いて上洛しました。 霊元天皇(れいげんてんのう)[1654年 - 1732年] 第112代天皇(在位:1663年 - 1687年)。 上皇となった後の1687年の東山天皇即位の際、大嘗会の再興を幕府に願い、実現させました。 後桜町天皇(ごさくらまちてんのう)[1740年 - 1813年] 第117代天皇(在位:1762年 - 1770年)。 江戸時代で二度目の女性天皇です。 光格天皇(こうかくてんのう)[1771年 - 1840年] 第119代天皇(在位:1780年 - 1817年)。 1789年に尊号一件とよばれる事件を起こしました。 孝明天皇(こうめいてんのう)[1831年 - 1867年] 第121代天皇(在位:1846年 - 1866年)。 井伊直弼が日米修好通商条約に調印したことに強く反対しました。 孝明天皇の妹の和宮が徳川家茂と結婚しました。 1865年に徳川家茂の請願を受けて、アメリカとの日米修好通商条約ほかイギリス、フランス、オランダ、ロシアとの通商条約を勅許しました。 明治天皇(めいじてんのう)[1852年 - 1912年] 第122代天皇(在位:1867年 - 1912年)。 1867年に大政奉還を行いました。 同じく1867年に王政復古の大号令を行いました。 明治時代には大日本帝国憲法を制定し、日清戦争・日露戦争で勝利しました。 以上が覚えるべき天皇となります。 ぜひ覚えてください。 トップページ 絵で覚える日本史単語帳 絵で覚える日本史単語帳の索引 日本史テーマ別 twitter始めました。

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