源氏 物語 葵 現代 語 訳。 源氏物語『葵(葵の上と物の怪)』解説・品詞分解(1)

『源氏物語』の“葵”の現代語訳:9

源氏 物語 葵 現代 語 訳

夕顔巻の一節の現代語訳を比較(図表参照)してみた。 与謝野源氏はいずれも口語体で、主語を入れ、敬語を省いた短文で書かれている。 男性的で歯切れが良く、入門編としてふさわしい。 晶子が狙ったのは、『源氏物語』の精神は生かしつつも、古風な女語りの文体から距離を置き、近代小説として再生させるところにあった。 なお『新新訳』は戦後、河出書房の日本文学全集に加えられて大ヒットし、谷崎源氏と並んで現代語訳の双璧と言われた。 現在は角川文庫のほかにネットでも見ることができ、無料で読めるのも魅力である。 谷崎潤一郎の三つの現代語訳は、原文の敬語を生かして丁寧語を多用し、継ぎ目のない長文で主語も入らず、初心者にはやや難しい。 しかし、読解力のある読者にとっては、魅力ある訳である。 関西の女語りを意識した、流麗な雅文体の訳で、谷崎にとっての理想の日本語の文体を追求したともいえる。 その文体は格調が高く、文学的な香気が感じられる。 また女流作家の訳らしく、車争いや生霊事件での六条御息所の心理分析など、内面の読み取り方は鋭く深い。 会話を多用した一種の現代小説のようで、大和和紀の源氏漫画『あさきゆめみし』にも影響を与えた。 巻名も「眠られぬ夏の夜の空蝉の巻」から「夢にも通えまぼろしの面影の巻」まで、巻の内容を要約しつつ 洒落 しゃれ ている。 光源氏はナルシシスト、かつニヒリストとして描かれ、女性に対しても思いやりに欠け、その近代的な男主人公の視点から物語は紡ぎ出されていく。 文体は「私は」という主語を多く使い、敬語を省略した英文翻訳体で、自然をはじめ描写は細緻である。 華麗なる書き言葉を駆使して、『源氏物語』を日本の古典というより世界文学として押し出そうとする意識が強い。 各巻の最後には「源氏のしおり」という解説が付き、書かれていない紫式部の本音がわかる仕掛けで、出家した瀬戸内の人生観も重ねられている。 刊行された頃は講演会や朗読会など、メディア・ミックスによる宣伝効果もあり、かつてないヒットを飛ばした。 文庫化でさらに読者の裾野を広げ、若年層の古典離れを防ぐだけでなく、団塊世代の古典回帰も助けている。 大塚は『「源氏物語」の身体測定』『カラダで感じる源氏物語』など、身体から読み解く源氏エッセイの著者として知られる。 『全訳』はわかりやすい逐語訳で、「ひかりナビ」と称する注釈の説明文を付けている。 訳文を自分で音読し、原文のリズムを損なわないよう心がけたともいう。 一方『謹訳』は、出版社のうたい文句が「品のある日本語ですらすら読める」である。 しかし、実際の文章は近世書誌学者の林らしく、漢字の熟語を多用する教養主義の訳文で、すらすら読めるのはそれなりに教養のある読者だろう。 また注釈をすべて現代語訳に入れているため、原文一つ一つがかなりの長文で訳されている。

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今年こそ『源氏物語』…あなたが選ぶ現代語訳は? : 深読み : 読売新聞オンライン

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大殿 おおとの = 葵 あおい の 上 うえ。 左大臣家の姫君。 御 み 息 やす 所 どころ = 六 ろく 条 じょう の 御 み 息 やす 所 どころ。 大殿 おおとの には、 御 おん 物 もの の 怪 け いたう起こりて、いみじうわづらひ 給 たま ふ。 葵の上におかれては、御物の怪がひどく起こって、たいそうお苦しみになる。 「この 御 おん 生 いきす 霊 だま 、 故 こ 父 ちち 大臣 おとど の 御 ご 霊 りょう など言ふものあり。 」と聞き給ふにつけて、 思 おぼ しつづくれば、 「ご自分の 生 いき 霊 りょう や、亡き父大臣の死霊だなどと言う者がいる。 」と、(六条の御息所が)お聞きになるにつけて、お考え続けになると、 身ひとつの 憂 う き 嘆 なげ きよりほかに、人を 悪 あ しかれなど思ふ心もなけれど、 我が身のつらさや嘆きより他に、人を不幸になってしまえなどと思う気持ちもないけれど、 もの思ひにあくがるなる魂は、さもやあらむ 物思いで悩んだあげくにさまよい出て行くとかいう魂は、そのようなこともあるのだろうか。 と思し知らるることもあり。 と、身にしみてお気づきになることもある。 くわしくはこちら 人の思ひ消ち、無きものにもてなすさまなりし 御禊 みそぎ の後、 あの人(=葵の上)が無視し、いないものとして扱った態度であった御禊の後、 ひとふしに思し浮かれにし心、 その一件によって落ち着かなくなりなさった心が、 鎮まりがたう思さるるけにや、 鎮 しず まりそうもなくお思いにならずにはいられないせいであろうか、 少しうちまどろみ給ふ夢には、 少しうとうととお眠りになる夢には、 かの姫君とおぼしき人の、いと清らにてある所に行きて、 あの姫君(=葵の上)と思われる人の、たいそうきれいにしている所に行って、 とかく引きまさぐり、 現 うつつ にも似ず、 猛 たけ く 厳 いか き ひたぶる心出で来て、 あれやこれやと引きかきまわし、目の覚めている状態とは違って、 猛々 たけだけ しく激しい一途な心が出て来て、 うちかなぐるなど見え給ふこと、たび 重 かさ なりにけり。 荒々しくつかんで引っ張る様子などを御覧になることが、たび重なってしまった。 (2) 「あな、 心 こころ 憂 う や。 げに、身を 棄 す て てや、 往 い にけむ。 」と、 (六条の御息所は、)「ああ、つらいことよ。 なるほど、身体を捨てて、出て行ってしまったのだろうか。 」と、 うつし心ならずおぼえ 給 たま ふ 折 おり 々 おり もあれば、 正気でなくお感じになられる時も度々あるので、 「さならぬことだに、人の御ためには、 「そうでもないことでさえ、(わざわざ)他人のためには、 よさまのことをしも言ひ出でぬ世なれば、 良いようなことは言い出さない世の中なので、 ましてこれは、いとよう言ひなしつべきたよりなり。 」 ましてこれは、たいそう上手く 噂 うわさ を立てることができる良い機会 だ。 」 と 思 おぼ すに、いと 名立 なだ たしう、 とお思いになると、たいそう噂になりそうで、 「ひたすら世に亡くなりて後に 怨 うら み残すは世の常のことなり。 「 一 いち 途 ず に、この世からいなくなって後に怨みを残すのは世間でよくある事だ。 それだに、人の上にては、罪深うゆゆしきを、うつつのわが身ながら、 それでさえ、人の身の上においては、罪深く不吉であるのに、生きている状態の我が身のままで、 さるうとましきことを言ひつけらるる 宿 すく 世 せ の憂きこと。 そのようないやなことを噂される 因縁 いんねん のつらいことよ。 すべて、つれなき人にいかで心もかけ聞こえじ。 」 もういっさい、薄情な方(=光源氏)に、どうあろうとも心をおかけ申すまい。 」 と思し返せど、思ふもものをなり。 とお考え直しになるけれど、思うまいと思うのも物思いするということなのである。 おどろおどろしきさまにはあらず、そこはかとなくて、月日を過ぐし給ふ。 (葵の上の方は、)ひどく苦しいという様子ではなく、特に悪いこともなく、月日を過ごしなさる。 大将殿も、常にとぶらひ聞こえ給へど、 大将殿(=光源氏)も、いつもお見舞い申し上げなさるけれど、 まさる方のいたうわづらひ給へば、御心のいとまなげなり。 さらに大事な方(=葵の上)がひどく 患 わずら っていら っしゃるので、お気持ちの休む間も ないようである。 続きはこちら -.

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源氏物語『葵(葵の上と物の怪)』現代語訳(3)(4)

源氏 物語 葵 現代 語 訳

」と思して、 残念にお思いになのであろうか。 」と(光源氏は)お考えになって、 「何ごとも、いとかうな思し入れそ。 「何事も、たいそうこのように思い詰めなさるな。 さりともけしうはおはせじ。 いくら何でも大変なことにはならないでしょう。 いかなりとも、かならず 逢 あ ふ 瀬 せ あなれば、 どのようになっても、必ず死後に逢う機会があるということだから、 対面はありなむ。 きっと対面することがあるでしょう。 大臣、宮なども、深き契りある仲は、めぐりても絶えざなれば、 (父の)大臣、(母の)宮(=皇族)なども、深い縁のある間柄は、生まれ変わっても絶えないということだから、 あひ見るほどありなむと思せ。 」と、慰め給ふに、 逢う時がきっとあるだろうとお考えなさい。 」と、(光源氏が)慰めなさると、 「いで、あらずや。 (六条の御息所の生霊が乗り移った葵の上が)「いえ、違いますよ。 身の上のいと苦しきを、しばし休め給へと聞こえむとてなむ。 (調伏されて)体がとても苦しいので、しばらく(祈禱を)休ませてくださいと申し上げようと思って(お呼びしました)。 かく参り来むともさらに思はぬを、 このように参上しようとはまったく思わないのに、 もの思ふ人の魂は、げにあくがるるものになむありける。 」と、なつかしげに言ひて、 物思いする人の魂は、本当に体から離れ出るものだったのですね。 」と、親しげに言って、 嘆きわび 空に乱るる わが 魂 たま を 結びとどめよ したがひのつま 悲しむあまり空にさまよっている私の魂を、下前の褄を結んでつなぎとめてください。 この部分を結んでおくと魂が出て行かず、とどめられると言われていた。 とのたまふ声、けはひ、その人にもあらず、変はり給へり。 とおっしゃる声や、雰囲気は、葵の上その人ではなく、お変わりになっている。 (4) いとあやしと思しめぐらすに、ただかの御息所なりけり。 たいそう不思議なことだと考えめぐらしなさると、まさにあの御息所なのであった。 あさましう、人のとかく言ふを、よからぬ者どもの言ひ出づることと、 驚きあきれて、人があれこれと(噂して)言うのを、ろくでもない者たちが言い出したことと、 聞きにくく思して、のたまひ消つを、目に見す見す、 聞きづらくお思いになって、否定していらっしゃったが、目の前にまざまざと見て、 「世には、かかることこそはありけれ。 」と、うとましうなりぬ。 「世の中には、このようなことがあったのだなあ。 」と、(光源氏は)いやな気持になった。 あな、心憂と思されて、 ああ、いやなことだとお思いになって、 「かくのたまへど、誰とこそ知らね。 「そのようにおっしゃるけれど、誰だか分からない。 たしかにのたまへ。 」とのたまへば、 はっきりと(名前を)おっしゃりなさい。 」と(光源氏が)おっしゃると、 ただそれなる御ありさまに、あさましとは世の常なり。 まさに御息所その人のご様子で、驚きあきれると言っては言うのもおろかな普通の表現である。 人々近う参るも、かたはらいたう思さる。 女房たちがおそば近くに参って来るのも、きまりが悪いお気持ちになる。 続きはこちら -.

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