空の青さを知る人よ 意味。 【あいみょん/空の青さを知る人よ】歌詞の意味を徹底解釈!主題歌はあおいの罪悪感と恋心を描いている!?

【考察】映画『空の青さを知る人よ』作品のテーマとタイトルの意味を考える!!

空の青さを知る人よ 意味

画像出典 本作の主人公のあおい、高校2年生です。 姉のあかねが自分のせいでやりたいことを我慢していると思っており、そのために東京へ出ようと考えています。 また、生霊として現れた高校生のしんのに恋をしてしまい、あかねへの姉妹愛との間で揺れ動きます。 この 心の葛藤が本作のメインの描写でしょう。 そのため本作で仲良くなる大滝千佳は貴重な友人となったようですね。 ただ、正嗣にだけは心を開いているようで、年下ながら頼りにしている描写がいくつも出てきました。 しかし直情的な性格をしているあおいがこの物語を動かしている推進剤になっていたのは間違いないでしょう! 相生あかね 画像出典 あかねはあおいの実姉で現在31歳。 両親を事故で亡くしてからはずっとあおいの母親がわりになっていました。 小さなあおいを残して遠くへは行けないため、高校卒業時に東京へ行くしんのへついて行かないと告げます。 本人は『あおいが一番大切』であることに何の迷いもないため、自分の選択に後悔はないようです。 しかし慎之介のことはずっと心に想い続けていたようですね。 あかねの周囲の人間、あおいや正道(みちんこ)は「あかねは無理をしてやりたいことを我慢しているのでは」と心配していました。 周囲(特にあおい)に振り回されても怒ることがほとんどなく、精神的に非常に大人びているキャラクターだなと感じました。 なんというかあかねの心の広さはもう仏という感じです(笑) 金室 慎之介 画像出典 あかねの幼馴染で、恋人だった「しんの」の成長した姿です。 慎之介はビッグになってあかねを迎えに来ると宣言して上京しました。 一度はソロデビューを果たしたものの鳴かず飛ばずで地元へも連絡できずにいたところに、拾ってくれたのが演歌歌手の新渡戸でした。 しかし慎之介は新渡戸に感謝こそすれ、演歌歌手のバックバンドという立ち位置には満足しておらず、もうあかねを迎えに行くのは半ば諦め自堕落な生活を送っていたようでした。 しかし幼馴染のみちんこの計らいにより、新渡戸のバックバンドとして故郷を訪れることになります。 この人物の印象としては、大人の方の慎之介はひたすら「しんのとの対比」に使われていたという印象ですね。 熱く夢を語るしんのに対して、 冷めた目で世の中を達観して諦めてしまっている慎之介という感じ。 しかしこの慎之介が失った情熱を思い出していく過程こそが、正に本作のタイトル「空の青さを知る人よ」を示していたのではと思っています。 しんの 画像出典 千佳はあおいの同級生で、数少ない友達です。 決して目立つキャラクターではないんですが、正直に思ったことしか言わない千佳のキャラが、あおいを自分の本当の気持ちに気づかせるのに一役買っていたのかな、と思います。 千佳もあおいに 散々振り回されても文句を言ったりしないタイプで、実は懐がめちゃめちゃ広いのでは?と思っていました。 というかあおいの周りは全く怒らない人だらけで、だからこそ傍若無人なあおいが生きて行けている、という感じがしますね(笑) まとめ 今回は、『空の青さを知る人よ』の人物相関図をまとめてみました。 こうしてまとめてみると、あの花のような、『昔仲良しだったグループ』の成長した姿を描くのが好きな監督なんですね。 やはり共通したものを感じました。 少ない登場人物の中に緻密な人間関係や心の機微が描かれている名作だったと思います。

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映画「空の青さを知る人よ」聖地巡礼でファンが私有地に無断侵入か

空の青さを知る人よ 意味

解説 埼玉県・秩父を舞台に描いた「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。 」「心が叫びたがってるんだ。 」の監督・長井龍雪、脚本家・岡田麿里、キャラクターデザイン&総作画監督・田中将賀が再結集し、前2作同様に秩父を舞台にオリジナルストーリーで描いた長編アニメ映画。 秩父の町に暮らす高校生の相生あおいは、進路を決める大事な時期なのに受験勉強もせず、東京へ出てバンドをやることを目指して大好きなベースを弾いて毎日を過ごしていた。 あおいには唯一の家族である姉のあかねがいるが、2人は13年前に事故で両親を亡くしており、当時高校3年生だったあかねは恋人・金室慎之介との上京を断念して地元で就職し、妹の親代わりを務めてきた。 あおいは自分を育てるために多くのことを諦めた姉に対し、負い目を感じていた。 そんなある日、町の音楽祭に大物歌手の新渡戸団吉が出演することになり、そのバックミュージシャンとして、あかねと別れたきり音信不通になっていた慎之介が町へ帰ってくる。 時を同じくして、まだあかねと別れる前の慎之介が、13年前の過去から時を超えてあおいの前に現れる。 吉沢亮が慎之介、吉岡里帆があかね、松平健が新渡戸団吉の声を演じるなど豪華俳優陣が声の出演。 2019年製作/108分/G/日本 配給:東宝 スタッフ・キャスト ネタバレ! クリックして本文を読む もっと若い人が観る映画のようにも思うけれど、自分のようなおっさんの心に響く作品だった。 男なので、やはり主人公のひとりであるシンノに感情移入した。 「ガキの頃の俺が今の俺を見たら笑うだろうか」 という思いは、多くの大人の男が持っていると思う。 青くさくも抱いていた夢、理想、将来。 そのとおりの人生が歩めている大人はほとんどいないだろう。 多くが、生きていくために、一番したかったわけでもない仕事をして、あの頃一番好きだった彼女ともとっくに離れ、シンノスケの言葉を借りれば「俺だってそれなりに頑張ってる」人生を必死に生きてる。 だからシンノスケの気持ちがわかる。 そして、多くの人が、思い出の中にシンノを持ってる。 将来への夢、理想、こんな大人になりたいという希望。 青臭くても熱い想いを、個人差あれど持っていたはずのシンノの部分にだから共感する。 「あんたみたいになってもいいって思わせてくれ」と将来の自分に向かって叫ぶ。 その叫びは、自分の中にもある自分の言葉だからシンノスケにも刺さるし、我々おっさん視聴者にも刺さるのだろう。 夢をかなえていなくてもできることはあるだろう?と若いシンノは問いかける。 それをちゃんと失ってなかったから、おじさんシンノスケは走り出せた。 大好きな人を救うために。 13年前、シンノは東京へ行きたくて、東京なんかに行きたくなかった。 東京へ行きたかったシンノは思い出を、アカネを捨てて街を出た。 だからギターケースにテープを巻いた。 東京へ行きたくなかった、アカネへの想いを捨て切れなかったシンノはお堂の中で眠り続けた。 シンノスケが地元に戻るとき、 置いてきた思い出と見つめ合わずには戻れなかった。 だから彼はギターケースのテープを解いたし、故郷に、そしてお堂に向かったのだろう。 二人が対立を終えてわかりあい、若きシンノが消えたとき、寂しさよりも爽やかさが残ったのは、シンノが未来を受け入れて、シンノスケが忘れてきたものを取り返せたからだと思う。 井の中の蛙、大海を知らず。 それど空の青さを知る 井の中の蛙は、みんな。 シンノもアオイもアカネも。 アカネは空の青さを知っていた。 もしくは、東京には行けないとなったときに、ここで生きていくんだと決めた時に空の青さを知ったかもしれない。 シンノは、空の青さ=アカネへの想い も、大海=東京で叶えたい夢も両方持っていた。 その二人…いや三人に触れたことでアオイははじめて空の青さを知る。 そういう映画だった。 ネタバレ! クリックして本文を読む ストーリー全般としては、まぁ想定の範囲な終わり方。 悪くも無く、特別に良くも無く。 ただ、生き霊?「しんの」がお堂から出られないで話が進む中、どうやってオチを付けるかと思ったら、意外と簡単に出られた。 そして、空まで飛んでしまう。 最初から13年前の姿の「しんの」が出ている時点でファンタジーなのだが、生身のあおいを連れて空まで飛んでしまうと流石にやりすぎかなぁと。 エンドロールでラストシーン以後の写真が何枚か映るが、それで慎之介とあかねが結婚するのは分かるが、慎之介は演歌のバックバンドを続けているのか、違う道に行くのかが不明で単にハッピーエンド的なカットだけ見せられてもなぁとは思う。 何か説明がザルと言うか、分かってくれるよね的な展開なのは脚本家の名前を見て、なんとなく納得してしまった。

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映画『空の青さを知る人よ』評価は?ネタバレ感想考察/2人の慎之助の意味は?田舎は不幸?

空の青さを知る人よ 意味

『空の青さを知る人よ』は三部作の集大成と謳われているが、「」作品としても、完結編的な映画だと思う。 演出にしろ作劇にしろ、語り口に迷ってしまうほど密度があり、一つ一つに込められた意味が重い。 言ってしまえば、「だれから/どこから」語るか、慎重に選びたくなる映画かもしれない。 「だれから」についてはまず、この2本の記事を押さえておきたい。 「新・主人公の条件」では相生あおいにスポットを当て、彼女がどうして主人公であるのか解説されている。 中でも荒井(谷)由実の「卒業写真」と過去/現在/未来の時間のあり方をつなげる鮮やかな手練には思わず拍手を贈りたくなる。 公開当時、エンドロールの「写真」に引っ掛かりを覚えるといった感想をいくつか読んだが、これはそのひとつのアンサーだろう(自分自身、少なからず考えあぐねていた)。 対して「アニマゲ丼」の記事は「あかね」ルート(視点)への詳細な読み解きを主としており、あかねの素晴らしさが存分に語られている。 とくにあかねが時折みせる微妙なリアクションへの解釈は一読どころか、何度も読み直しながら映像を観たいと思わせる、一種の"解答集"(「正解」とは異なる)になっている。 ぜひ作品読解のガイド、参考にしたい優れたテキストだ。 これらを踏まえ、さらに深掘りしていくと何が見えてくるのかというと、例えば最初観たときから気になっていた、あかねの乗るのとある描写。 アニマゲ丼の一文を引用しよう。 慎之介が現れて物語が進むにつれ、彼女の本心が明らかになっていきます。 彼への思いはあるけどそれをハラにおさめてきたのは、あおいを育てることの方が大事だから。 それは自分がガマンするということではなく、あおいにそれだけの価値があり、あおいの成長を見守ることに自分の一番の喜びがある。 その選択は主体的なもので、その正しさは彼女にとって揺るぎないものだからです。 悲しい「犠牲」にも美しい「献身」にも塗り込めてしまわないところに、奥深さを感じます。 着目したいのは、あかねの選択が主体的なものであるというところ。 目の前にどんな壁があったとしても、人生のハンドルは自分で握っている。 だから、と言い切ってしまうほどの根拠を求めるわけではないけれど、何故彼女がオートマではなくマニュアルの車に乗り、"悪路"走破性の高い(山道を通るの土地柄もある)を選んでいるのか、納得できるだろう。 「マニュアル」を生かした演出もある。 終盤、あかねと慎之介、「しんの」の3人で帰る車内のシーンだ。 右手をハンドルに添え、左手でシフトレバーを握るあかね。 そこへインサートされる幼いあおいと手をつないだ高校生のあかねのバックショット。 あかねの両手、右手と左手が握ってきたもの。 そして、その手を離れていくもの。 あかねの「手」(人生)と「マニュアル」を重ねた巧みな。 色トレスであかねとあおいを描いているのが監督のフィルムらしく、また「シフトチェンジ」の意味合いがドラマと演出、両方に掛かっている。 ベースを弾くあおいの手、そんなあおいの手を引いてきたあかねの手、その手を次に引くのは……これ以上は野暮だろうか。 さて本作を「どこから」切り取るか、書いておきたいのは「囲まれている」という作品のテーマと、その見せ方についてだ。 「盆地ってさ、結局のところ、壁に囲まれているのと同じなんだよ。 わたしたちは、巨大な牢獄に収容されてんの」 これは作中であおいが口にしたを皮肉って自虐するセリフ。 対となるのは、あかねが卒業アルバムに書いた「 大海を知らず、されど空の青さを知る」という慎之介のデビュー曲の元となり、映画のタイトルにもなっている言葉だ。 を「井の中」に見立て、仮想的に東京、あるいはもっと広い世界のことを「大海」と呼ぶ。 この辺りのと東京の関係性は、出身、脚本・岡田麿理の肌感覚によるものかもしれない。 脇道に逸れるが、元々「」のは「・秋水」に由来し、秋の洪水にちなんだ話である。 もし蛙が狭い井の中で空を見上げていたとしたら、それは秋の空なのだ。 狙ってか知らずか、『空の青さを知る人よ』も10月の終わりから11月の頭にかけての物語であり、ゆえにあおいとしんの、ふたりの"蛙"が一年でもっとも高い秋の空へ飛び出すの奥行き、意味付けに一役買っている。 何にも遮られることのない空を飛ぶふたり。 しかしそのころあかねは、土砂で出口が埋まってしまったトンネル=井の中にいる。 井の中にいたふたりが、井の中に閉じ込められたもうひとり助けに行く。 そう、空の青さを知る人を。 テーマを救出するみごとな構成だ。 個人的に感じ入ってしまったのは、「目玉スター」という目の中のほくろまでを、「空」と結びつけたこと。 「目」から消えない、"出られない"ほくろ。 しかしその目で空の青さを知った。 囲まれていない空を景色を知った目玉スター。 しんのであり、あおい自身のことだ。 「ほくろ」をどんなアップで見せるか、どのくらい引くと見えなくなるのかという演出指針はかなり細かく指定されているではないかと思う。 逆に言えば、「ほくろ」が見えているカットの心理描写を追いかけるのは、面白いかもしれない。 きっと何かの"仕込み"があるはずだ。 閉じ込められているという比喩的かつ状況に共通性があったとしても、内容はそれぞれ異なっている。 囲みを超えたり、出たりするのではなく、その中で抱えているもの。 あるいは封じられているもの。 おそらくそれが『』のかくれんぼであり、『』で玉子の妖精に取り上げられたお喋りからつづく、三部作の(岡田麿理的)性、"盆地"性にかかわる部分なのだろう。 だからこそ、そこから空に高く飛び上がる運動には、解放感以上の価値がある。 集大成と呼ばれる作品の象徴であり、運動なのだから。 まだまだあかねの仕草(手の芝居、ポージング)、レンズ(眼鏡)と演出など、熟考を重ねてみたい箇所は山ほどあるが、ひとまずここで。 相生あかねは底が知れない……!.

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