しらふ で 生きる。 「しらふで生きる」町田康著|日刊ゲンダイDIGITAL

しらふで生きる 大酒飲みの決断

しらふ で 生きる

外出自粛で増える自宅での時間。 それは自分を見つめなおすのにもってこいです。 今日は、酒と人生の関係を考える記事をご紹介します。 * * * 「名うての大酒飲み」と言われた町田康さんが4年前にお酒をやめた顛末を微細に綴ったが話題です。 30年間毎日飲み続けた町田さんはなぜ酒をやめることができたのか? それは「幸福についての考え方」が変わったからでした。 町田 どうしたら自分に大きな負荷をかけずに、より自然に生きていけるだろうかと考えた本ですね。 たとえば、自分は周りから正当な評価を受けていない、ひどい目にあっていると思っていると「酒でも飲まなやってられんわ」となってしまうわけですが、そもそも自分は大したものではない、不当に評価されているわけでも、何かを奪われているわけでもないんじゃないか? それなら酒を飲む必要もないんじゃないか? というのが考えの中心になっています。 それなら「人は幸福にならなければならないわけではない」と考えた方が楽だろうし、幸福になるための努力に失敗して不幸になってしまうくらいなら、普通のままでもいいじゃないかと。 「幸福」という言葉が一人歩きしていて、そこに囚われると人は「不幸」になってしまうのではないかと思います。 町田 幸福でないことすなわち不幸ではないし、幸福だ不幸だといっても最後はどうせみんな死ぬやろ、とも思うんです(笑)。 まあ人間という生き物の宿命で、誰しも自分という地点からしかものが考えられないし、その考えも、不完全な言葉を使ってしか外に出すことができない。 その言葉だって、それぞれが独自のものだから実は人にはあまり通じていなくて、長いものを書く意味はそこにあるんですけどね。 人間というものは、悲しく淋しく閉じているもの。 だからこそ歌や文学が存在するんじゃないかと思います。 町田 大伴旅人「酒を讃むる歌」から本が始まったので、じゃあ酒を貶める歌で終わらせようと考えついて詠んだのが「酒を貶める歌」十三首です。 『万葉集』にも収められた大伴旅人の歌から、替え歌のようにして作りました。 大酒飲み時代の町田さんは、お酒のどんなところがお好きだったんですか? 町田 酒の味や飲んでいる場というよりは、酒に酔ってる状態が好きだったんじゃないかな。 我を忘れるというか抑制が外れるというか。 日常が退屈だから旅に出たい、虚しいから悟りを開きたい、そんなことと同じで単純なものだと思います。 大酒を飲んで世間に迷惑かけたこともありましたし、よくない飲み方でした。 ご馳走があるのに酒飲まないなんて頭がおかしい、情けない。 だから美味しいものを食べる意味がなくなってしまった。 料亭とか行くと料理がちょっとずつ運ばれてくるでしょ? あれも酒を飲むペースに合わせているから、酒をやめたら「早く持ってこい!」と思うようになりましたね(笑)。 酒をやめてネガティブな変化があるとしたら、唯一、食べものに興味がなくなったことかもしれません。 お酒をやめられて、一番の変化はなんでしたか? 町田 ちょっとしたことに目を凝らしたり、耳を澄ませたりすることができるようになったというところですね。 大きな音で素晴らしい音楽もあれば、大きいだけ、うるさいだけの音楽もあるし、小さく繊細で、綺麗な音もある。 酒という強烈な刺激があったときには、マスキングされたようになって聴こえなかったり、見えなかったり、気づかなかったりしたものを、感覚できるようになったのは大きな変化ですね。 功利的にものごとを語るのはあまり好きではないんですが、その影響は、やっぱりあるでしょうね。 来年には、酒を愛し、酒に悩んだ種田山頭火について書く連載も始まります。 この『しらふで生きる』と対になるような連載になるのでしょうか、そちらも楽しみにしています。 ありがとうございました。 (おわり) 関連キーワード.

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町田康さんは、ぼくが20年近く追いかけてきた作家です。 町田さんがいなければ、今の自分はありません。 少なくとも小説は書いていないのじゃないかしら。 町田さんの影響で小説を書き始め、小説を書くのに膨大な時間を費やしてきました。 この膨大な時間を、金儲けのために使っていたら、今ごろ自分は……。 いえ、町田さんには本当に感謝しています。 町田さんと言えば、大酒飲みで知られています。 エッセーにも、酒にまつわるエピソードが数多く出てきます。 その町田さんが酒を断ち、それも4年前から1滴も飲んでいないと本書で知り、腰を抜かすほど驚きました。 酒を飲まない町田さんは、果たして町田さんと言えるのでしょうか。 そうも考えました。 本書を読んで、本当に止めたんだと何だか感動さえしました。 町田さんほどではないにしても、酒飲みにとって禁酒は大変に辛いことです。 かく言う私は毎晩、缶ビール1缶とワインをグラスに2杯飲むことを習慣にしています。 休肝日は週1回。 ただ、1日お酒を止すだけでも寂しい、何か人生を損したような気分になります。 しかし、本書によれば、そんなことはありません。 酒があろうとなかろうと、人生は寂しいものなのだとか。 心に沁みますね。 本書は、禁酒をしたい人のための一級のハウツー本になっています。 ぼくも、読みながら、禁酒を何度も考えた次第。 さらに、例によって町田節が炸裂し、随所に笑いが散りばめられていて飽きさせません。 個人的には、酒を止した町田さんの作風が変わってしまわないか心配です。 で、ちょっと調べてみました。 町田さんが酒を止したのは2015年12月です。 最新刊は、9編の短編を収めた「記憶の盆をどり」。 9編のうち、後半の4編は恐らく酒を止してから書いた作品です。 で、前半の5編と比べてみました。 全く分かりませんでした笑。 表題作「記憶の盆をどり」(2016年11月配信)は、次のような書き出しで始まります。 「去年の暮れに酒をよした。 人にそう言うと必ず、『どうしてよしたのですか』と問われる。 」 最後はこんな文章で締めくくられています。 「ああ。 酒をやめなければ。 酒をやめさえしなければ死後の生を生きていられたのに。 そんな後悔が頭を駆けめぐる。 シャワーの音がやむ。 」 このころはまだ、酒に未練があったのでしょうか。 禁酒して初めの頃は、7秒に一度くらい酒のことを考えていたのだとか。 それが3カ月も経つと、酒のことを考える時間の方が少なくなったそう。 酒を止して、「痩せた」「眠れる」「仕事が捗る」などの利得があったのも自信につながったようです。 そうですか。 うーむ、酒を止めようか、どうしようか。 果たして止められるのか。 うーむ、うーむ、うーむ。 町田康が自らの断酒体験をふまえて書いた、話題の「断酒エッセイ」。 類書には、アルコール依存症になってから断酒した経験を綴った小田嶋隆の『上を向いてアルコール』がある。 本書は、『上を向いてアルコール』よりもずっとブッ飛んでいる。 「小説家が自らの断酒体験を綴ったエッセイ」と言われて、たいていの人が思い浮かべる内容の、はるか斜め上を行っているのだ。 なにしろ、町田自身の断酒について具体的に書かれているのは、終盤部分のみなのだ。 残り4分の3ほどは、〝人が酒をやめることにどのような意味があるのか? また、断酒のためにはどのような認識の転換が必要になるのか?〟などをめぐる考察が、延々と、かつ執拗につづけられていく。 それらの考察が、町田康ならではのグルーヴ感に満ちた笑える文体で綴られるので、そのグルーヴに身をまかせるだけで面白いし、楽しい。 だが、その笑いの底にある考察は、哲学的な深みを湛えている。 本書は、〝人が酒を飲むこと/やめること〟の意味をめぐる哲学書といってもよいものだ。 世の中には、主人公の男女が最初から最後までベッドの上にいる長編ポルノ小説があるのだそうだ。 そのような小説を書けることもある種の才能だろう。 同様に、〝酒をやめること〟というワンテーマで一冊の本が書ける町田康も、やはり大変な才能だと思う。 なお、本書は昨年11月刊で、私が買ったものは12月末6刷。 売れているのだ。 町田康のファンという枠を越え、断酒したい人たちが買っているのだろう。 実用書を企図した本ではあるまいが、断酒に向けて背中を押す効果も意外に大きい気がする。 終盤で綴られる「禁酒の利得」には、強い説得力がある。 著者はその「利得」を、次の4点にまとめている。

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楽天ブックス: しらふで生きる

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勤労感謝の日が土曜だと休日が増えなくて損した気持ちになるけど、その感覚は間違っていて、そもそも俺には休んでハッピーな気持ちになる時間が約束されていたわけではない。 俺は何も失っていない。 — Hiroaki Yutani yutannihilation なぜか。 この本の小見出しを借りて言えば、「私たちに幸福になる権利はない」と知ってしまったからだ。 どういうことか、という説明に、筆者は車の渋滞を例に挙げる。 走行していて渋滞にぶつかったとする。 暫くの間、ノロノロ運転が続く。 それが長く続くこともあれば、そんなに長くないこともあるが、我慢しているとやがて渋滞が解消して通常の速度で走行できるようになる。 おもしろい現象はこの後に起こる。 どういうことかというと、いま私は、「通常の速度で」と書いたが渋滞を抜けた車の多くが、渋滞を抜けた途端、アクセルペダルを深く踏み込み、通常の速度を遥かに超える速度でぶっ飛んでいくのであり、その様はまるで、「ひどい目に遭った!」と絶叫しているようである。 なぜぶっ飛ぶのかといえば、自分が持っている通常の速度で走る権利が不当に奪われたからで、それを取り戻すべく通常以上の速度で走りたい、という理屈になる。 しかし、と筆者は言う。 私たちには本当に速く走る権利などというものがあるのだろうか。 たしかに渋滞にはいらいらする。 なんか不当な扱いを受けているような気分になる。 しかし、渋滞に遭わないような人間がいるだろうか。 総理大臣のような偉い人や、自家用ヘリを乗り回すような金持ちなら遭わない。 では果たして自分はそのように偉かったり金を持っていたりするだろうか。 違うならば身の程を弁えよ。 と、こうなるわけである。 私たちに幸福になる権利はない。 ちなみにこれと飲酒に何の関係があるかというと、人は以下のようなロジックを持ち出して酒を飲みがちで、 自分は幸福である権利を有している。 ところが今朝方から夕方にかけて不当にこれを奪われた。 ひどい目に遭った。 そこで自分は夕方以降、そもそも有していた幸福を感じる権利を行使することができるはずである。 しかしそもそもの前提が間違っているのだから酒を飲んでいいという結論も間違っている、という話にアクロバッティブに展開していくわけだがそのあたりの仔細はこの本を読んでもらうとして、少しだけ別の補足をしたい。 上に「身の程を弁えよ」と書いたけど、私たちは弁えたくない。 身の程だろうが心の程だろうがうぬぼれに任せて生きたい。 しかし周りを見渡せば世の人々はなにかしら弁えているようであり、もしかして弁えられていないのは自分だけではないか、俺は狂人なのではないか、という不安を胸のうちに抱える。 そんな暗い日々に俺は町田康の小説を読んで、あんまり弁えてなさそうな狂った人々を見てほっとしていた。 ところがその同じ著者が、身の程を弁えよ、的なことを言っている。 その衝撃たるや。 俺もそろそろしらふで生きる時が来たのかもしれない、と思った。 (カバー画像:).

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