ホテル ニュー ジャパン。 ホテルニュージャパン跡地はそれからどうなったのか : Timesteps

ホテルニュージャパンの跡地 廃墟は14年間放置ってマジ!?都心のどまんなかに不気味なホテル

ホテル ニュー ジャパン

歴史 [ ] 開業まで [ ] ホテルの敷地は、の際に部隊が立ち寄った日本「幸楽」の跡地だった。 「幸楽」は戦時中、撃墜されたが直撃、している。 率いるが設立母体となり、当初は高級レジデンス(アパートメントとも称された)として着工した。 都市型多機能ホテル [ ] ホテルの特徴として• 大中小14の宴会場と舞台付100畳敷の広間(通常は日本料理店)• ホテル部と旅館部の2種業態併存• 充実した料飲施設• ショッピングアーケード• 高級レジデンス と多様なニーズに対応した点である。 その他にもサルタン風呂、なども備わり、後に開業する、ホテルニューオータニに先駆けた都市型多機能ホテルであった。 また、日本初のトロピカルレストランである「ポリネシアン」は、同ホテルの1階に存在した。 立地条件はと、から近く、が結婚披露宴を挙げるなど、政財界・芸能界の利用も多かった。 またの拠点のほか、も事務所を構えるなど、政局報道のたびに同ホテルが舞台となることも多かった。 その他1968年に、1970年にが来日公演を行った時の宿泊施設にもなっていた。 だが、同じく1960年代に開業した、、同じ永田町二丁目の東京ホテル(後の(旧)現)、などと比較すると、経営ノウハウや設備面などで見劣りするなどから、経営面では苦戦を強いられた。 特にホテルの建設に軟弱な地盤等の対策で費用がかかった為、莫大な借入金の負担ものし掛かり、開業時から赤字決算も続いていた。 敷地の地下(ホテル1階とは連絡していないためフロアではない)には高級ナイトクラブ「」があり、こちらも豪勢ではあったものの、1960年代後半から既に流行や時代の波に取り残されていた。 にが暴力団員に刺された事件(後に死去)が発生している(ナイトクラブ自体はホテルニュージャパンとは別営業であり、ホテルが火災に遭い廃業となった後もまで営業を続けていた)。 買収と火災 [ ] 跡地に建設されたプルデンシャルタワー ホテルは1970年代に入ると、藤山愛一郎が政界進出で資金流出が続いた点や、新規事業等の不振から藤山コンツェルンが衰退したことから、様々な再建策が模索され始めた。 一時はホテル業界進出を当時検討していたが買収する案があったが、レジデンス部分の扱いで折り合いがつかず進まなかった。 こうした結果、愛一郎の長男・(社長)に懇請 された大日本製糖の大株主の率いる東洋郵船が、ホテル業界進出も狙って買収することを決め、横井自ら社長に就任して経営にあたることとなった。 横井の経営方針は人員の整理や経費削減といった徹底した合理化策であった。 このため安全対策予算が削られ、館内のスプリンクラーは作動しないまま、消防設備・館内緊急放送回路も故障したまま放置し、国内で起きた火災史上最悪となる118人の犠牲者を出した「大阪」を教訓として1974年に改正された消防法に基づき、東京消防庁麹町消防署より再三にわたり「館内防火管理体制を改善する」よう指導されていたが、横井は予算不足を理由に無視し続けていた。 それまで加湿など集中冷暖房で対応していた空調も削減対象になり、加湿機能を削減し管理されるようになった。 ただし、宴会場やロビーにはやフランス製の古家具を置くなど表面上は豪華さを演出する方策もとられた。 結果として、1982年2月8日、貧弱な防火設備と疲弊した労働環境による従業員の対応不全により、宿泊客の火の不始末を原因とした火災によって、ホテルニュージャパンは死者33人を出す惨事に見舞われてしまう。 火災後 [ ] 火災後、東京都より営業禁止処分を受け、ホテルは廃業した。 横井に対して多額の貸付を行っていたが、貸付金の担保であったこのホテルをにより売却することで資金の回収を図ろうとした。 しかし、火災等の曰く付きの土地を購入しようという投資家は見当たらず、千代田生命が自己落札し自ら敷地を保有することとなった。 その間、部でも一際恵まれた好立地でありながら、のまま放置され続けていたが、火災から14年後のになってようやく建物は解体された。 跡地は千代田生命が再開発事業に着手したものの、千代田生命自体が10月に経営破綻する。 その後、がこの土地と建設途中のビルを買収し、と共同で建設を進め、オフィスと外国人向け高額賃貸住宅から成るとしてに完成した。 建物 [ ] 建物は、の設計者(と共同設計)や建築音響学の権威として知られるが設計した。 全体の平面構成は、120度の角度で接続する大きな「Y字型」を中心に、さらにその先端にやはり角度120度で同じ奥行きの「Y字型」の枝が接続するという、いわば構造の形をした建築であった。 これは全室から景色が見られるよう意図したものであるが、その結果まるでのような内部空間となってしまい、後の火災発生時にも避難を困難にした原因のひとつともなった。 これには最初同ホテルが高級レジデンスとして計画された影響も大きかった。 急な用途変更により、設計者の佐藤武夫も困惑し納期の関係から急ごしらえを余儀なくされたことが悲劇へとつながった。 内装 [ ] 内装は日本を代表する工業デザイナーが担当した。 このホテルのラウンジチェア(実際はロビーラウンジではなくメインバーであったマーメードバーに置かれていた)がの永久収蔵品に選定されるなど、剣持勇の担当した内装は評価が高く、剣持の提唱したジャパニーズモダンの様式を体現したホテルであった。 しかし、その後の度重なる内装の小変更によって、次第に剣持オリジナルの意匠が薄れていった。 また、前述の強引ともいえる突貫工事の影響により、軽量ブロックなど当時出始めていた新建材を多用せざるを得なかった。 それ故に同ホテルはソフト面でのモデルケースとしてだけではなく、後に増大する新建材の実験場ともなっていた。 特に和室は世界的なテキスタイルデザイナーであると剣持と共同で壁紙を製作した洋室とは違い、壁等に新建材を多用したためにデザイン面では優れていたものの質感に乏しかったという指摘もある。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ].

次の

ホテルニュージャパン跡地はそれからどうなったのか : Timesteps

ホテル ニュー ジャパン

この記事を読むのに必要な時間は約 8 分です。 ホテルニュージャパン火災は、1982年(昭和57年)2月8日深夜3時すぎに発生し、33人の死者と34人の負傷者を出した。 火災は宿泊客のイギリス人、スティーブン・ディッカーの寝たばこが原因だったのだが、防火設備や訓練が不十分だったのも被害を拡大させた要因とされている。 お疲れ様です 叶姉妹と横井英樹の関係は!? どうも何らかの男女のつながりがあったとうのがガチみたいw — kazublog Nqi19380H 当時の社長・横井英樹氏は、脱出に成功した宿泊客に「出来る限りの補償をさせていただきます」と頭を下げていたらしいが、実際は最低限の補償しかしなかったという。 それどころか横井社長は、火災中にもかかわらずロビーに飾ってあるヨーロッパの高級インテリアを運び出すよう秘書に指示していたといい、「自分たちは被害者だ。 悪いのは寝たばこのイギリス人だ」と明らかに責任逃れになるコメントを発したのである。 結局、横井社長はホテルの支配人と業務上過失致死罪で起訴され、いずれも有罪判決を受けた。 そして1998年に虚血性心疾患で他界。 享年85歳 現在ホテルの跡地は超高層ビル「プルデンシャルタワー」が建っている。 今回はホテルニュージャパン火災の真相や、横井英樹社長と叶姉妹・叶恭子のウワサなどについてまとめてみた。 ホテルニュージャパン社長と叶姉妹の関係は!? ホテルニュージャパン火災発生時、人命救助よりも自分の資産の方が大事とみて、運び出しを指示したとされる横井英樹社長は、安全よりも金儲けに執着した経営者だった。 ごうまんな経営ぶりに従業員は次々と辞め、また社長の意にかなわない者は容赦なく首を言い渡されたという。 開業当時320人いた従業員は、火災時には134人にまで減少。 従業員の通報が遅れたのも、すべてが横井社長に責任があるとして、禁錮3年の刑が下された。 そんな横井英樹社長とは一体どのような人物だったのか? 横井社長は大正2年、愛知県で横井家の次男として誕生。 本名は千一で祖母が付けたという。 これは「千人に一人の大人物」、という意味から「千一」となった。 そして11歳の時、「出世をするまでは帰らない」と言って上京し、繊維問屋に就職。 商いで非凡な才能を発揮し、17歳で独立。 繊維問屋「横井商店」を開業した。 その後、太平洋戦争が始まると、軍需品に目をつけ「横井産業」を設立。 29歳で社員3000人を擁する大企業の社長となった。 次に目を付けたのは不動産で、買った土地は次々と値を上げたという。 そんな中、百貨店の先駆け的存在の白木屋が経営不振で倒産寸前であることを知り、白木屋の株式を買い集めた。 一方、白木屋の社長は「どのような手段で株を集めたのかは知らないが、どこの馬の骨かわからん者を迎え入れることは絶対にできない。 」と言って、横井社長を拒絶したのだった。 そんなことを言われた横井社長は、ついに金しか信じない野心家へと変貌。 多くの財界人を巻き込んではあらゆる手段を用いて、1954年、江戸時代から引き継がれた老舗デパート白木屋の経営陣を一掃することに成功した。 この事件で「乗っ取り屋」の異名を持つことになった横井社長。 その後、実業家として「ホテル経営」に乗り出し、ホテルニュージャパンのオーナーとなった。 ちなみにラッパーのZEEBRAは横井社長の孫にあたる。 そして、横井英樹社長と叶姉妹の関係だが、ウワサによると姉・叶恭子の方と愛人関係を結んでいたとか。 きっかけはショッピング中、横井社長に声をかけられたことだったという。 実際に横井社長と叶恭子がツーショットで映る写真が週刊誌に載っているので、2人に何らかの関係があったのは間違いない。 また、叶姉妹といえばコールガールだったというウワサもあるが、横井社長も姉妹の常連客だったと言われている。 姉妹がパリの空港で「国際売春婦」ということで足止めを食った際、横井社長に電話して助けを求めたら大蔵官僚経由でシラク大統領に連絡をとって、入国を許されたという話もあるようだ。 さらには、横井社長の死去後、多額の遺産を手に入れたというウワサも。 姉妹が芸能界に進出したのも横井社長が他界した時期とほぼ同じで、高級品を身に着けている資金源は横井社長の遺産だという。 その額およそ100億円に上るらしいが、あくまでもウワサである。 ホテルニュージャパン、イギリス人が火災の原因!? ホテルニュージャパンがあったのは東京都千代田区永田町で、社長は「昭和の買収王」として脚光を浴びた横井英樹氏。 地下2階、地上10階のホテルは超高級までとはいかないが、地下のクラブ「ニューラテンクォーター」は政財界の社交場としてよく知られていた。 火災は深夜3時すぎに発生して翌日の昼過ぎまで燃え続け、宿泊客376人と従業員の27人の計403人の中から死者33人を出すという史上最悪の人災となった。 火元はイギリス人観光客が宿泊していた9階の938号室からで、当時酒に酔って部屋に戻ったことが始まりだ。 裁判記録では、イギリス人の寝タバコが火災の原因とされている。 また、火災発生当初、仮眠をとっていた従業員が異変に気づいたらしいのだが、なぜか館内放送で火災を知らせることをしなかったそうだ。 これも裁判記録によると、従業員らは火災警報ベルの鳴らし方を知らなかったといい、さらにはフロントマンのうちの一人は、消火栓箱からホースを取り出そうとしたがその使い方もわからなかったという。 そして極めつけは、ホテルの造りとスプリンクラーが始動しなかったことだ。 このホテルの場合、一部を除いて客室部分にスプリンクラーは備えられておらず、取り付けられていたスプリンクラーも一部配管が繋がってない「ダミー」で水が出なかった。 ホテルの造りも隙間だらけの欠陥だったので炎がその隙間を通り、隣の部屋に燃え移ったという。 もし、火災時に防火設備がきちんと整っていて、内装に欠陥がなければこれだけの大惨事にはならなかったはず。 それと、最初に通報したのはホテルの関係者ではなく、前を通りがかった通行人やタクシーの運転手だったのも問題である。 ボヤで大騒ぎをして、横井社長に怒られることを恐れていたため従業員が通報したのは発見から20分も後だったのだ。

次の

ホテルニュージャパン

ホテル ニュー ジャパン

1982年(昭和57年)2月8日、東京都千代田区永田町にあるホテル、「ホテルニュージャパン」の9階から出火、火災となりました。 その日は海外、とりわけ台湾や韓国からの宿泊客が多く、9階と10階に宿泊していた103人のうち、33人が死亡、24人が重軽傷となる大惨事となりました。 当時、永田町近辺だけでは足りず、都内あらゆるところから消防車が出動しました。 火災の原因は、外国人客の寝タバコが直接の原因ですが、それだけではこの大惨事には繋がりませんでした。 ここまでの被害を引き起こしたのは、火災対策の不備。 消防庁から再三指導を受けていたにもかかわらず、スプリンクラーをろくに設置せず(そもそもそのための配水管を通していなかった)、防犯ベルも不備であり、且つ従業員も教育不足で緊急時の対応がとれなかったことなどが大惨事へと繋がりました。 もともとこのホテルは乗っ取り屋と呼ばれた横井英樹氏により買収されたホテルだったのですが、経営面では周りのホテルに比べて苦戦を強いられたことから、徹底的なコストカットによって利益を確保しようとしたようです。 しかしそのしわよせが防災設備にも及び、結果として大惨事に繋がってしまいました。 この火災は当時大々的に報道されましたが、その時の横井英樹氏の対応が非常にまずく、反感を買うことになります。 具体例としては、死人が出ている火災発生現場で報道陣に対して拡声器で「本日は早朝よりお集まりいただきありがとうございます」と状況を顧みずに言い放っていたこと、その後、出火させた宿泊客に責任転嫁する発言をしたこと、火災当時、従業員に高級家具の運び出しを優先指示したとされること、特別救助隊隊長の高野甲子雄氏に贈賄を図り、怒ってつっかえされたことなど。 チョーネクタイの横井氏の姿は、その当時日本中で悪い意味で有名となりました。 この時の救助の模様は、昭和の事件を扱う時にはよく放映されています。 ちなみのその時特別救助隊長をされていた高野甲子雄氏は、小金井市小金井消防署長を務められたあと定年退官されたとのこと。 余談ですが、この翌日、羽田空港で日本航空350便墜落事故(逆噴射事故とよく言われる)が発生し、24人が死亡しますが、この大規模火災の消火にあたっていた東京消防庁が、また対応に追われるということになりました。 ちなみに横井氏の経歴を詳しく見ていると、マンガ『銀と金』に見られるような、昭和の裏経済史みたいなものが見えて興味深いです。 しかし取り壊されることもなく、ずっと放置されていました。 というのは、このホテルは火事の後、千代田生命保険が担保として取得したのですが、ここを競売にかけても全く売れなかったからです。 故に千代田生命保険が自己落札し、敷地を所有することになりました。 ちなみに地下には「ニューラテンクォーター」という、力道山が刺殺されたことで有名なナイトクラブがあったのですが、こちらは別経営で1989年まで営業していたとのことです。 しかし、都内の一等地、しかもバブル景気にもかかわらず、ここは火災時のまま放置されることとなります。 そのため、周りが立派な建物の中に残る異様な光景として、別の意味で有名になりました。 起きた事件が事件なので、霊感スポットにもされたそうです(あまりこのテの事件が起きた場所を霊感スポットとするのは好きではないのですが。 まあ私が霊感が皆無だからかもしれませんが)。 以下は、その当時の写真(Wikipediaより)。 2001年9月に起きた新宿歌舞伎町ビル火災のビルも、長い間火災が起きたまま放置されていましたが、このような火災を起こしたビルの処理というのは一つの問題となるのでしょう。 まあ火災に限らず経営破綻とかで解体されず放置された場合もそうですが。 そして再び新しい建物が出来る、と思ったのですが、その後2000年、千代田生命が破綻します。 そこで外資系のAIG(アメリカン・インターナショナル・グループ)が支援、AIGスター生命が経営を引き継ぎます。 そしてその時、ホテルニュージャパン跡地は同じく外資系プルデンシャル生命に売却されました。 そしてプルデンシャル生命は森ビルと共同で再開発、そこに2002年、プルデンシャルタワーが完成します。 そこは地上38階、塔屋1階、地下3階、プルデンシャル生命のほか多くの会社がテナントとして入り、上層階は高級賃貸マンションになっているとのことです。 しかし、古い建物、もしくは小規模なところでは対策がなされていない場合があります。 または建物が基準を満たしていても運用がまずくて火災になってしまった時に大惨事になるケースも数多くあります。 故に、今でも宿泊施設に泊まるときは宿泊施設側だけに頼らず、避難経路を面倒でも確認するなど、万が一を心得ていた方がよいでしょう。

次の