平田 たぬき。 たぬきで書き込みした人を特定する方法こんにちはヴィジュアル系の匿...

しゃべりもゲームもクラッシュし過ぎ!平田くんのクラッシュバンディグー│Streamerチャンネル

平田 たぬき

彼らになら私の曲を弾いてもらいたいと思えるね。 ピアニストランキングTOP30 基本的にピアニストは自分自身の楽器を持ち運べない可哀想な音楽家です。 どんなに自分と相性の悪いピアノでも、コンサート会場のピアノを使わなければいけないのです。 そういった点も少ーしだけ考慮した上で、 4つの選考条件を元にしたピアニストランキングを作成しました。 生演奏を聴いた事がある• 心を揺さぶる演奏であった• 独自の音楽性がある• 独自性を伝える技術がある かなり昔に聞いたものもありますが、どれだけの時が経過しようと、今回紹介するピアニストたちの演奏は間違いなく私の心と耳に深く残っています。 ヴィルトゥオーソピアニストの1人です。 私が聴いたのはチャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」。 まだ若き彼がテクニックを駆使して演奏している様は将来の活躍ぶりを感じさせる物がありました。 しかし最近は余り彼の名を聞くことが無くなり残念です。 エリザベート王妃国際音楽コンクール4位入賞、ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクール優勝。 私が聴いたのはラフマニノフ「ピアノ協奏曲第3番」でしたが、この難曲を難なく弾きこなす姿はとても素晴らしい物でした。 彼女も残念ながら2006年に健康不安を理由に演奏活動から引退しました。 2007年大英帝国勲章授与、2008年ロイヤル・フィルハーモニック協会からも賞を授与、イギリスを代表する女流ピアニストとして活躍しています。 私が聴いたのはモーツァルト「ピアノ協奏曲第26番」。 「戴冠式」の名を持つこの名曲を魅力的に弾いていました。 非凡な才能に恵まれたピアニストです。 私が聴いた曲はベートーヴェンの「皇帝」。 煌くようなベートーヴェンでした。 わずか2年で卒業!15歳でピアニストとしてデビューしますが、19歳で今までの自分の音楽生活に疑問を感じ、ピアニストとしてのキャリアを捨てて画家を目指した異色のピアニストです。 私が彼女の演奏を聴いたのはモーツァルトの「ピアノ協奏曲第21番」でした。 女性とは思えないような大胆な演奏振りが印象的でした。 私が彼女を聴いたのはN響との協演。 ラフマニノフ「ピアノ協奏曲第3番」。 あの難しい曲を見事に演奏していました。 若くてこんな演奏するなんて凄い!と驚きました。 その後の活躍が余りぱっとしないのが残念です。 1966年19歳のときグラミー賞にて最優秀クラシック・アーティスト新人賞を受賞。 一時音楽を離れるが自分には音楽しかないと復帰。 彼の演奏を聴いたのは、「モーツァルト「ピアノ協奏曲第9番」でした。 若きモーツァルトが書いたこの名曲を大胆に弾きこなしている様は圧巻でした。 リスト弾きの演奏家として世界的に知られていました。 私も彼女のリストを聴いた一人です。 「ピアノ協奏曲第1番」。 リストのこの通俗名曲を完全に自分の物にしていて、観衆を惹きつける見事な演奏でした。 ベートーヴェン、シューマン、ブラームス、ラヴェル、バルトークらの演奏を得意としていました。 私が聴いたのもベートーヴェン「ピアノ協奏曲第3番」。 私が大好きなこの曲を見事に演奏していた姿は今でも鮮明に覚えています。 残念ながら2003年に現役を引退しました。 モーツァルトやベートーヴェン、シューベルト、シューマン、バルトークなどのレパートリーは評価が高く、残された録音は好楽家から人気があります。 私が聴いた時でも70歳ぐらいのお歳だったと思います。 モーツァルト「ピアノ協奏曲第22番」。 丁寧な演奏で我々を魅了しました。 1974年テルアヴィヴ・アルトゥール・ルービンシュタイン国際コンクールに優勝。 幅広いレパートリーの持ち主で現代音楽も結構演奏しています。 私はショパンの「ピアノ協奏曲1番」をグシュルバウアー/N響で聴きましたが、けれんみの無い素直な音楽でした。 奥様は日本人ピアニストの野崎陽子です。 N響の定期演奏会で何回か聴いていますが一番印象に残っているのがグリーグの「ピアノ協奏曲」。 見事なグリーグでした、その一語に尽きます。 皇后美智子様ともご親交があるそうです。 テクニックに裏付けされた見事な音楽を奏でる人です。 リスト「ピアノ協奏曲第1番」を聴きましたが、基本に忠実な、実に見事な演奏でした。 テクニックはあるけど無難すぎるとの批判がありますが、私はこういうタイプが好きです。 この方は結婚されてからより音楽が深くなりました。 また子供が出来てからもますます良くなりました。 素敵なピアニストです。 この方も何回か聴いていますが大友直人/N響との協演で演奏したチャイコフスキーの「ピアノ協奏曲1番」がより印象的でした。 とても才能豊かな日本を代表するピアニストの一人です。 モーツァルト弾きとして有名。 私が聴いたのもモーツァルトの「ピアノ協奏曲24番」、N響の定期でもう随分昔のことです。 澄んだ響きの素敵な演奏でした。 これはライブレコード化されていますのでぜひ聴いてほしいいと思います。 コンドラシン/N響でバルトークの「ピアノ協奏曲第3番」を聴きました。 優雅なタッチで優しい音楽だったと記憶しています。 短めの曲ですが基本的なことがきっちりとしていて忘れられない演奏です。 テクニックが物凄く、硬質なタッチのピアニストです。 私が聴いたのはメンデルスゾーンの「ピアノ協奏曲第1番」ですが、曲についてはまるで記憶がありません。 しかしちょっと細めの黒人が見事に弾いている姿が今でも印象的です。 音楽もそんなところがあって好きなピアニストの一人です。 私が聴いたのはかなり昔のN響との協演でラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」でした。 あの雄大な曲を自由に弾きこなして、見事な演奏でした。 最近はアルゲリッチ達と組んで室内楽も楽しんでいるようです。 モーツァルト弾きとして世界に名を馳せました。 でも私が聴いたのはベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第4番」。 これは感動的でした。 しばらく拍手が鳴り止みませんでした。 このコンクールでは、西欧出身者として初の入賞者でした。 彼を聴いたのはウーヴェ・ムント/N響とのモーツァルト「ピアノ協奏曲第12番」。 とてもテクニックが凄く、曲の内面性もとらえた演奏で感激しました。 その凄さは世界的に超有名です。 長髪に髭も長くその風貌は宗教者のよう。 私が聴いたのはブラームスの「ピアノ協奏曲第1番」。 あの交響曲のような大曲を見事に弾きこなしました。 圧倒された演奏会でした。 彼女はモーツァルト弾きというイメージが強くあります。 事実モーツァルトの録音が多いのは確かです。 しかし私が聴いたのはブラームスの「ピアノ協奏曲第1番」。 時には叙情的にまたある時にはパワフルに弾いていました。 綺麗なピアニストでしたが、もう現役は引退したのでしょうか。 ベートーヴェンとブラームスを得意としており、現代を代表するピアニストの一人です。 私は2回彼を聴いていますが、ブラームスの「ピアノ協奏曲第2番」は素晴らしかった。 あの大曲を十分にコントロールしつつ見事な演奏でした。 私が聴いたのは本当に昔、70年代最後、N響の定期でベートーヴェン「ピアノ協奏曲第1番」を聴きました。 若きベートーヴェンを彷彿とさせるような活きのいい演奏でした。 これ以後は彼を指揮者としてしか聴くことが無くなりました。 現代を代表するピアニストの一人。 彼をナンバー1にする人も多いことでしょう。 私はベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第4番」をN響で聴きました。 素晴らしいテクニック、集中力、音楽性、文句なしの演奏会でした。 演奏後女の子達が花束を渡そうとあんなに列を作ったのを始めて見ました。 イケメンですからね。 今でこそ世界のUCHIDAになりましたが、本当の意味でメジャーになったのは1980年代から。 モーツァルトのソナタ、協奏曲の全曲演奏会を行なってロンドンの聴衆たちを感動させ世界に躍り出ました。 私も何回か聴いていますが、読響とやったベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第3番」は名演でした。 こんなピアニストが日本にもいたのかと感動したことを覚えています。 オーストリア、ドイツ系の音楽の王道が得意なピアニスト。 私が聴いたのもベートーヴェンの「皇帝」。 素晴らしい高みの演奏でした。 その風貌のようにとても知的で正当なベートーヴェンを聴かせて貰いました。 残念ながら2008年に引退を発表しました。 翌年、同コンクールに再度挑むがまたしても第2位。 技術は申し分ないが、中々優勝できずにいました。 1960年、18歳のポリーニは世界的にも名高いショパン国際ピアノコンクールで優勝を成し遂げます!!審査委員長のアルトゥール・ルービンシュタインが「今ここにいる審査員の中で、彼より巧く弾けるものが果たしているであろうか」と賛辞を述べ、一躍国際的な名声を勝ち取りました。 空白の8年間 ショパン国際ピアノコンクール優勝後、約8年間に渡り音楽界から姿を消しました。 演奏会はおろか、録音も一切残っていません。 突如音楽会から消えた天才ピアニストに様々な憶測が流れました。 腱鞘炎であるとか他の病気であるとか、現在でも彼は当時について口を開こうとはしません。 ショパン国際ピアノコンクールで優勝した天才ピアニストをオーケストラやレコード会社が放っておく訳がありません!将来を約束された天才の身に何が起こっていたのか、未だ多くの謎に包まれているピアニストです。 そんなミステリアスな所も彼の音楽に深みを持たせているのでしょう。 マウリティオ・ポリーニの活躍 空白の8年を経て音楽界に復帰したポリーニはその才能を世界に轟かせる事になります。 世界の主要な指揮者やオーケストラとの競演は何れも絶賛され、録音も全て気迫溢れるものになっています。 数々の国際的な賞も受賞していますので紹介したいと思います。 1987年ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団名誉賞• 1995年ザルツブルク州ゴールド勲章• 1996年エルンスト・フォン・シーメンス賞• 1999年アルトゥール・ルービンシュタイン賞• 2000年アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ国際賞• 2010年高松宮殿下記念世界文化賞 ポリーニの音楽は、硬質かつ均質でクリアな音色である事が特徴です。 そして正確無比なテクニックによる完成度の高い演奏は聴く人全てを魅了します!!私が聴いたのは小澤征爾が振るベートーヴェンの「皇帝」この曲の到達点なのかもしれないと思わせるほど、心を打つ見事な演奏でした。 作曲は偉大なる音楽界の巨匠『アルノルト・シェーンベルク』から学びます。 わずか12歳でウィーン交響楽団とメンデルスゾーンのピアノ協奏曲を協演して音楽界にデビューした神童! 1936年アルトゥーロ・トスカニーニ指揮ニューヨーク・フィルハーモニックと共にアメリカデビューを果たします。 1939年ナチスから逃れるためにアメリカへと移住します。 演奏活動をする傍らカーティス音楽院で30年に渡って教鞭をとり、1968年から学院長となります。 音楽院で教授をしながらも1951年にはマルセル・モイーズらとともにマールボロ音楽学校と同音楽祭を創設、主宰となり活躍しました。 1991年、生涯現役を貫いた偉大な音楽家はアメリカのギルフォードの地で88歳で世を去ります。 ちなみに、24位のピーター・ゼルキンは彼の息子です。 ルドルフ・ゼルキンの活躍 20世紀型の巨匠の一人として活躍したルドルフ・ゼルキン。 コンクールなど無い時代にデビューし、自らキャリアアップしてきたピアニストです。 ドイツ音楽を得意とし、ベートーヴェン、ブラームス、モーツァルトなどに名演奏を残し、また室内楽にも定評がある人でした。 こんなに凄いピアニストでしたが録音に関してはあまり積極的ではなく、CDの数は他の世界的ピアニストと比べ遥かに少ないです。 やはりライブに拘ったピアニストだったのでしょう。 感動的だった演奏会 私が彼の演奏を生で聴く事ができたのは残念ながらたったの2回。 どちらもベートーヴェンの皇帝でした。 その中でも小澤征爾との「皇帝」は二人の息がぴったりと合った素晴らしい演奏でした。 アンコールはシューベルトのソナタの第2楽章。 これも心の中で大事な思い出として残っていて、40数年たった今でもこの曲を聴くと彼の弾いてる姿が頭に浮かびます。 優しい人柄が出た、暖かく心に澄み渡る素敵な音楽でした。 気付けば私の目から涙がこぼれていました。 1の登場です。 自分だけのピアニストランキングを作った時、私と同じようにマルタ・アルゲリッチを一位とするクラシック愛好家も多いのではないでしょうか。 2歳8ヵ月からピアノを弾き始め、8歳の時には公の場でベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第1番」を演奏してみせました。 1957年ブゾーニ国際ピアノコンクール優勝。 またジュネーブ国際音楽コンクールの女性ピアニストの部門においても優勝! 1965年ショパン国際ピアノコンクールでも優勝(中村紘子は4位入賞)。 『ピアニストの女王』としての確たる地位を手に入れました。 アルゲリッチの偉大なる指導者たち• グルダ• マガロフ• リパッティ(夫人)• ミケランジェリ• アスケナーゼ マルタ・アルゲリッチの活躍 唯一無二のピアニスト。 自由奔放で優しい人柄は音楽にも反映されており、彼女の演奏はとても自由で堅苦しさが無く、聴く者の心にすっと入ってきます。 そんな彼女ですから世界の主要な指揮者、オーケストラとの協演はもちろん、録音も素晴らしい音楽を次々と生み出しています。 今まで聴いたCDの中ではずれが1枚も無く、どれもこれも名盤です。 レパートリーはバロック音楽から古典派、ロマン派、印象派、現代音楽まで何でも弾きこなしてしまいます。 近年では彼女お気に入りの音楽家と室内楽をすることも多くなりました。 アルゲリッチの演奏会を聴いて 私が彼女を聴いたのは随分昔のことです。 1984年小澤征爾と新日本フィルとの協演でラヴェルの「ピアノ協奏曲」。 最初から最後まで一所懸命、力の続く限り走りきったぞといった演奏でした。 物凄く興奮したことが昨日の事のように思い出されます。 当時は彼女も小澤もまだ若かった(そして私も)。 彼女の音楽と小澤との掛け合いも良くあっていて、本当に素晴らしいものでした。 天才と天才がぶつかるとこんなにも感動する音楽が生まれるのかと感心した事を覚えています。 女性やアジア勢のピアニストの技術には脱帽してしまうよ。 本当なら順位を付けるのもおこがましい、あまりにも偉大過ぎる、私の中の永久欠番です。 お時間ありましたら下方の『中村紘子【追悼記事】』もお読みいただければ幸いです。

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平田弥里|社交家のたぬき

平田 たぬき

私は「ネットロア」という語をかなり広義に捉えていて、噂や風説といったもの、そこまではっきりしなくても、「なんとなくぼやっと信じられてそうなこと」までも含んでおります。 最近は世の流れで時事ネタを多めに取り扱いますが、私自身は「なんとなくぼやっと」のネタの方が、いつもワクワクしながら取り組めています。 というわけで、今回はその「ぼやっと」ネタの、「現代のむかしばなし、昔よりマイルドになってる説」です。 バアちゃん殺されないとか歴史修正主義者の暗躍がひどい — 新米先達mayan mayan1969 ずいぶん前のツイートですが、最近TLに回ってきたので、へえ、と思った内容です。 最近の「かちかち山」は、おばあさんは殺されず、しかも改心したっぽいタヌキと和気あいあいと打ち上げパーティーのように終わるんだとか、そういう話。 この手の話はよく聞きますが、果たして本当にそうなんでしょうか、というところを調べてみました。 *** 世界一受けたい授業の内容 まずは、この画像の出処を探します。 なんとなく、テレビっぽい感じです。 で、調べてみると、「世界一受けたい授業」がひっかかります。 何故か武田鉄矢が、日本の絵本について語るという、意味のわからない人選の回だったようで、2013年11月9日放送と、少々古めです。 本当になんで鉄矢なんだ。 番組で、「かちかち山」は、「昔と今では話が変わっている」代表として、以下のように語られていました。 鉄矢:ここに「かちかち山」があります。 この結末を覚えていらっしゃる方はいますか。 谷原:すごい、このタヌキが悪いやつで、おばあさんかなんかにいたずらをして、その仕返しを、うさぎが泥舟で溺れさせる… 鉄矢:一番最後は、ほら、ちょっとこわうございますが、泥の船で、タヌキが、沈んでいくんでありますが、 昨今はですね、パーティーで終わっちゃうという。 (先程のツイートの画像) 鉄矢: タヌキもウサギもおばあさんも集まりまして、打ち上げパーティーで終わるという、悪いことでも反省すればOK、というようなそういう非常に平和的なことになっているんであります。 (さるかに合戦の話。 中略) ゲスト: ほんとここ何年かですよね。 鉄矢: 何年かです。 ゲスト:やっぱり時代の流れですかね、そうやってみんなでワイワイ楽しく終わるっていうのも、僕は悪くないと思います。 なぜ鉄矢が訳知り顔に昔話の変遷について語っているのか理解し難いのですが、番組では、「ここ何年か」の話として、昔話が時代のニーズで変わっている、という話で締めています。 打ち上げパーティーの絵本は存在するが… まず私が疑うのは、果たして、打ち上げパーティーのように終わる「かちかち山」が存在するのか、ということです。 で、調べてみると、これは存在します。 平田昭吾という、手塚治虫の弟子で、アニメ絵本のパイオニアみたいな人のバージョンのものです。 この平田版『かちかち山』では、タヌキが泥舟に乗り込むところまではほぼ一緒ですが、その後が違います。 ウサギが、櫂でタヌキをぶったたきながら、「どうだ、おばあさんのいたみがわかったか」と、どこぞやの熱血主人公みたいに諭すと、タヌキは反省をしたので、 「このかいにつかまりなさい」と、ウサギは助けてあげます。 その後、「もう二どと、いたしませんから…」と、土下座して謝ることで、「おまえもすっかり心をいれかえたようだから、ゆるしてあげよう」と許され、 みんなでおもちをたべて、なかなおりをいわいました。 というのが、打ち上げパーティーみたいだといわれる場面です。 なるほど、確かに私たちが知っているようなかちかち山とは、少々趣きが違うように感じますし、そうやって騙されて殴られたにも関わらず席をおなじくして餅を食べるおばあさんの心は寛大すぎです。 「最近のかちかち山は軟弱だ」と、鉄矢が怒るのも、無理はありません(怒ってはいない)。 しかし、この説には重大な欠陥があります。 実は、平田版『かちかち山』の出版は 1985年12月。 今から 30年以上前の本なのです。 放送のあった2013年時ですら、全然「昨今」でも「ここ何年か」のことでもありません。 たぬきは生きているか うーん、鉄矢はもしかすると他の絵本のことを言っていたのかもしれません。 というか、そもそも、たぬきが殺されないのは、そんなに珍しいことなんでしょうか。 というわけで、戦前から現代にかけて、およそ私の手の届く範囲の児童書、絵本、また昨今のものはスマホのアプリも含めて、97冊調べてみました。 詳細な結果については、以下のPDFにまとめてありますので、気になる方はごらんください。 『児童書における「かちかち山」の変遷』 さて、たぬきの最期にはどんな種類があるかというと以下の通り。 これは当たり前ですが、圧倒的に溺死が多いです。 タヌキはとうとう土のふねと一しょにブクブクとうみのそこへしずんでしまいました 『一年生の童話』模範児童文庫刊行会(大阪宝文館)1926(P144 タヌキは、どろ舟といっしょに、海の底へ、ぶくぶくと、沈んでしまいました 『日本むかしばなし集 少年少女むかしばなし全集10』(宝文館)1950(P200) たぬきもいっしょにしずんでしまったそうな 『瓜子姫とあまのじゃく 日本の昔話(3)新装版』松谷みよ子(講談社)2008(P203) ただ、12件と数は少ないんですが、先述した平田版以外にも、たぬきが生き残るパターンもあるんですね。 泣いて心を改めた(中略)狸は助けあげられて、それから尽した村のため 『歌をうたふてつびん 童話集』薮田義雄(享栄出版)1946(P91-92) どろんこだぬきを、ふねにひきあげ 二どとわるいことはしなくなりました。 助けられて逃げてそれっきり• 助けられて謝って(おじいさんたちと)仲直り• 助けられて謝って改心(して尽くす) が挙げられます。 いやいや、この生存パターンはやっぱり現代になるほど多くなるんでしょ、と考える方もいらっしゃるかと思うので、「たぬきの最期」を時代区分別にわけたものもご用意しました。 「撲殺」「撲殺&溺死」は、「桜の木のかたい櫂でタヌキの頭を叩き割りました」のように、ウサギが櫂でたぬきの脳天をかち割るんですが、これはおばあさんを杵で殴って殺したたぬきと対比させるためでしょう。 しかし、さすがに刺激が強いと判断されたのか、時代が下るとほとんど出てこなくなります。 しかし、たぬきの生存パターンは、意外にも各時代にばらついており、特筆すべきは戦後すぐにも数があるということです。 たぬきはあっぷあっぷとなみのなか うさぎにあやまりたすかった 『かちかちやま ます美の幼児保育えほん』前田松雄(ます美書房)1952? ぶくぶくおぼれそうになり、たぬきはあやまって、たすけてもらいました 『かちかちやま(よいこの幼稚園絵本17)』宮脇紀雄(集英社)1953 これには筆者の注釈がつけられていることもあり、 もとの話では、あまりに深刻すぎるので、ここでは、お婆さんは怪我をさせられたことにし、狸は改心して、お爺さんお婆さんに、謝罪するということにしました。 『幼児にきかせるお話のたね』西山敏夫(実業之日本社)1955 残虐な場面だけは適当に書き改めました。 『日本のおとぎ話 一年生』1956 P210 また、「不明」としましたが、わざとたぬきの生死をぼやかしているものも多くあります。 以下はすべて物語の最後の行のものです。 たすけてくださいうさぎさん。 もうわるいこといたしません。 『かちかちやま えいこう社の保育えほん』土家由岐雄(永晃社)1950 ぶくぶくしずむどろのふね ごめんなさいごめんなさい もうわるいことはいたしません 『かちかちやま ます美の幼児保育えほん』(ます美書房)1952? タヌキは、どんどんながされて行きました 『日本むかしばなし宝玉集 上』たつみ・せいか(宝文館)1955(P42) つまり、「かちかち山」が少々残酷であり、書き改めようという動きは、戦後すぐにもありました。 個人的には、後述しますが、これは戦後民主主義教育の賜物ではないか、という気がします。 なので、「反省すればOK」というのが「ここ何年かの流れ」というのは、正確ではありません。 おばあさんは死んでいるか さて、ツイート主が指摘しているような、おばあさんの生死についてはどうでしょうか。 こちらもまとめてみました。 圧倒的におばあさんは死んでいますが、やはり生存バージョンもあります。 生存する際は、けがでおきられなくなったり、「うんとぶんなぐ」られ、「しにそうになってねている」だったり、怪我の程度はいろいろですが、とりあえず死なない程度の状態になっています。 で、基本的には、おばあさんが生存している場合は、たぬきも生かされており、「かちかち山」の話は、「目には目を」的な報復譚として捉えられていることもうかがえます。 これは逆も又然り、たぬきを生かしたい場合は、おばあさんを殺してしまうと、ちょっとたぬきの背負う罪の重さがつらい感じなので、このパターンもほぼありません。 これも、時代別に見ていくと、以下のようになります。 さきほどのたぬきの生存と呼応しており、戦後すぐと近年において、おばあさんの生存率があがることがわかります。 また、上記のグラフは「ばばあじる」の取り扱いについても載せましたが、こちらは傾向としては時代が下るほど、「ばばあじる」自体が扱われなくなっていると考えられます。 戦前・戦中から子どもに配慮されていた 詩人の田村隆一が、1989年の『こどもの本』1月号の「はじめてであった本」で、「かちかち山」について書いています。 田村は、子どものころに読んだむかし話や民話が「どれもこれも面白かった」とし、「ほんものの狸汁の味、狸にされたお婆さんの汁は、いったい、どんな味なのか」「いろいろ想像したおかげで」「室町時代の子どもたちに詩的想像力が生れたのかもしれない」と書き、現代の「かちかち山」についてこう記します。 さて、最近、本屋さんから買ってきたばかりの『日本むかし話』を、胸をときめかして読んでみたが、狸汁の味は、どこを探したって出てこない。 (中略)戦後の「かちかち山」はすっかり民主化されてしまって、「味」まで失った。 「こどもの本」1985年1月号 P1 田村がどの本を読んだかは定かではありませんが、田村の感覚、あるいは当時の時代感覚で「戦後」、「かちかち山」から「お婆さんの汁」は消えてしまったというものがあったということでしょう。 今まで調べてきたものを見ても、確かに時代としてはそういう傾向がありそうです。 しかし、果たして本当に、そうなのでしょうか。 「かちかち山」は明治の教科書のころから採用されている話で、昭和の国語の教科書にも掲載があります。 『小学国語読本 尋常科用 巻三』なのですが、この掲載のされ方が面白い。 「かちかち山」をそのまま載せているわけではないんですね。 より 良雄と太郎が、お面遊びをする中で、かちかち山の劇をする、という筋立てです。 良雄「うまい、うまい。 うまく できた。 さあ、ぼく は うさぎ、君は たぬき だ よ。 」 太郎「ぼく が たぬき か。 よし、やらう。 」 といって、舟のシーンのみをやります。 たぬき「やあ、大へん、大へん。 ぼく の 舟 に 水が はいって 来た。 あ、舟が しづむ、しづむ。 うさぎ君、助けて くれ。 」 というところで、お母さんが部屋に入ってきて話は終わります。 どうしてこのような形にしたのか、当時の指導書にはこんな推察がされています。 この教材はかなり編纂者においても苦心をして提出されたものと思う。 察するに「かちかち山」という童話の全体は、余りにも惨忍性が強くて、そのまま子供に提供することは 教育的に考えて出し難いと思ったのであろう。 そこで子供の遊びの中にこれを取入れて児童劇の形で出したのである。 (中略)だから取扱上においても、この精神を無にしない様にしたいものだと思う。 『改正 小学国語読本の実際的取扱 尋常科巻3』田中豊太郎(目黒書店)1933-35 P188 この指摘が当時においてそこまで特殊でないことは、他の文献からも読み取れます。 例えば、同じく小学国語読本の指導書的な本では、おばあさんが殺される場面について、 改作するか削除するべき所。 之をくわしく話すのはよくない。 『実力成長 小学国語読本の教授 尋常科用 巻3』(明治図書)1933-35 P381 としていますし、ばばあ汁のところも、「くわしく話してきかせるのは有害(前掲P382)」として、削除か改作を促しています。 他にも、 何れにしても狸を余り苛め過ぎたり老婆などを苛める場面を巧に適当に取扱って子供の惨忍性を扇動せぬことである。 とする指導書もあります。 こちらの指導書では、かちかち山の全文を載せていますが、末尾に「雛廼宇計木式にいえば狸を許したにしてもよい」とも記されており、たぬき生存パターンの道も残しています。 また、中には かちかち山の話は実に惨酷な物語である。 (中略)此の物語そのものの直接的表現を避けたのも、此の惨酷味を愈々薄くせんとする意図が働いての結果であろう。 (中略)五大童話四つを示して、一つ此の説話だけを欠くは甚だしく物足らぬ感があるであろうに、かかる巧みな方法に依って、此れが教材中に取入れられたのは洵に喜ばしいことである。 『小学国語読本 国文学教材の新研究』岡田稔・川瀬知行(東洋図書)1939 P70 と、読本の方法を絶賛しているものもあります。 読本以外にも、戦前・戦中に「かちかち山」の残酷性を指摘しているものもあります。 例えば、低学年の教材としての「かちかち山」を読むときの注意として、 お婆さんの殺されたこと、狸の火傷と溺死等の部分はあまり現実化さぬように取扱って置きたい。 『低学年教育童話 教材と其の活動 尋常第1学年』五味義武(南光社)1929 P107-108 としているものもあります。 戦前において中世の文学研究に多く成果を残した国文学者の島津久基は、『日本国民童話十二講』 1944)において、かちかち山の「婆あ汁」をこう評しています。 婆汁で想い出したが、此の件だけが本童話中特に非教育的で惨酷に過ぎるとの非難は、首肯できる。 正にその通りで、決していい話材ではない。 避けられるなら避けてもよいし、進んで強調すべきでないことは勿論であるが、刺激的に詳述しさえせねば、大人が心配する程の悪影響はないと思う。 島津自身は、子供時代には意味よりも「婆あ汁」という表現の面白さが勝っていたといい、「未だ曾て「婆汁」なぞを食べたいと思ったことも」ないとしていて、問題にはしていません。 ただ、世間の風潮として、「かちかち山」のもつ残酷性がある程度認識されていた、というところはおさえておきたいポイントです。 調べた中で一番激しく非難していたのは石丸喜世子で、こんな感じです。 この話の持つ思想は徹頭徹尾、敵討ちいうことに支配されて居ると思います。 それが、旧時代の遺物としては見る事が出来ても、現代の子供の柔かい頭にまでこの話を繰りかえして行く事は、私は誠に恐しい事だと思います。 出来ることなら、こんな話は昔噺の中から葬ってしまいたいのです。 『子ども愛の生活:教育感想集』石丸喜世子(人生創造社)1929 P17-18 「葬ってしまいたい」とまで云わしめるのはなかなかです。 なので、結果としてばばあ汁がなくなったりおばあさんが殺されなくなったりするのは戦後が多くなるとはしても、「子供の教育には…」というようなお題目は、その前から存在していた、ということでしょう。 少し突っ込んだ見方が許されるのならば、日本が近代国家として立ち上がっていく中で、培われてきた風潮、みたいな捉え方ができるかもしれません。 「かちかち山」という思想 前項の最後に引用した石丸の言葉はなかなか面白いと思うのですが、戦前と戦後において、「かちかち山」のなかでブレがはっきりと生じてくるのは、「敵討ち」の観点なのではないかと思います。 戦後の『日本の子ども』1959年3月号(講学館)という雑誌に、興味深い「かちかち山」考が掲載されています。 『日本の子ども』1959年3月 P26-27 まつやまふみおという漫画家が「昔ばなしの国めぐり」という連載で、いろいろな昔話を現代的に考えていくというものなんですが、「かちかち山」を裁判風に仕立てて、うさぎの非道さをあげつらい、こう判決を下します。 耳ながはたぬきのやけどの治療代と舟のなおし料を出すこと。 たぬきは人間をころさぬこと。 人間はたぬきをころさぬこと。 みんなで平和共存でやりましょう。 そして、最後のコマで、まつやま自身が「 これでこの国もめでたくおさまるだろう」と評しています。 少し時代は遡りますが、1949年の『作文』10月号(作文の会)に、山荷喜久男という人が「おとぎ話カチカチ山を読みて」という論評が載っています。 山荷は「カチカチ山」がいかにたぬきにとって残酷か、ということを語り、こう記します。 私はこう思います。 「日本の少国民を立派に、そして健康に育てて行くには、まっさきにおとぎ話を改良せねばならぬ。 明るく、優美で、平和をもつおとぎ話をどしどし作り、そして愛読しなければならぬ」と。 『作文』1949年10月号 P50 「時代の流れ」としてかちかち山を一つ論ずるならば、田村が喝破したように「戦後」「民主化」の中で、児童読物というものは揺さぶりをかけられてきた、ということができるかもしれません。 それは、「かちかち山」の残酷性の忌避というよりかは、「敵討ち」という思想の死でしょう。 戦中において魅力的だったこの価値観は、戦後急速に力を失っていきます。 代わりに、児童文学の世界で、どのように「かちかち山」を描いていくか、それが作家の思想性に依っていく流れになっていきます。 例えば、浜田広介といえば『泣いた赤鬼』で有名な児童文学の巨匠ですが、彼も「かちかち山」を書いています。 彼の「かちかち山」は、おばあさんは殺されず(「気がへんになってしまって」「ただ、ううと口さきがうごくばかり」)、したがってばばあ汁も登場せず、その後は土船のところまでは一緒ですが、ラストがかなり独特です。 木のふねに、たぬきをのせてやりましたか。 それとも、たぬきは、ふねといっしょにぶくぶくと海にしずんでしまいましたか。 そのへんがよくわかりません。 山のうさぎにこんどあったら、よびかけて、どちらのほうか、きいてみましょう。 『ひろすけ幼年童話文学全集11』浜田広介(集英社)1962 P204-205 これについて、彼は自身の解説でこう書いています。 現代の道徳観にもとづいて、わたくしは、「さるかに」の例にならって、うさぎが、ついにたぬきを沈めてしまったのか、それともゆるして、おぼれ死から救ってやったのか、そのへんをぼかし書きに書きあらため、そのどちらとも選択を読者のがわにまかせました。 前掲書 P236 少し消極的な選択ではありますが、 彼は彼自身の「かちかち山」の答えをこのような形で表しているのです。 他にも、1976年に筒井敬介の書いた「かちかち山」は、こちらも「敵討ち」の価値観の変容が見て取れます。 話の筋立ては全く同じ「かちかち山」なんですが、ラストが違います。 「そうまでしてくれて、そりゃありがたいとは そりゃおもうけどな、うさぎどん。 だからといって、ばさまがいきかえるじゃなし。 …」 そして、こごえでつぶやいた。 「うさぎもなんてわるがしこいやつ。 昔話には、そういう時代や個人の思想をとりこむ奥深さというものがあると、私は思います。 民話の再構成 その一方で、現代の「かちかち山」の絵本で版を重ねる松谷みよ子や小澤俊夫は、長年昔話の編纂にあたっており、口承昔話に依拠した表現を第一としています。 『日本の昔話絵本の表現』(てらいんく・2004)で、神立幸子は、この二人の「かちかち山」の構成の違いを指摘しています。 実は松谷は、ばばあ汁のくだりを自身の作品では省いているのですが、その理由を1967年発行の「かちかちやま」のあとがきでこう記しています。 さて、この「かちかち山」ですが、わたしは長い間、この話を好きになれませんでした。 なぜきらいかといえば、それはやはり、たぬきがばばあ汁をつくっておじいさんにくわせ、「ながしの下の骨をみろ。 」といって逃げていくあたりの残酷さが、幼い日の印象となってのこっているからではないかと思います 「かちかち山」によせて 松谷は、「おばあさんがたぬきによって打ちころされたということだけでよいのではないかと思った」ため、ばばあ汁のくだりを省いたとしています。 これは私見ですが、松谷の著した「かちかち山」は、形態を変えて、現在のいろいろな本に採用されており、これも近年の「かちかち山」が「ばばあ汁」を欠く要因になっているのではないかと思います。 小澤俊夫はマックス・リュティのメルヘンの様式理論の研究もしており、彼のかちかち山もそれに倣った形になっているという指摘を神立はしています。 そのため、小澤の「かちかちやま」にはばばあ汁が掲載されています。 小澤自身が語っているわけではありませんが、「ばばあ汁」のくだりも、彼はその様式理論の中に落とし込み、存在させるべきだと考えたのでしょう。 このように、簡単に「昔話を語る」とはいっても、それは話者(記録者)の客観的な物語ではありません。 松谷は、その「再話」についてこんなことを書いています。 伝説にしても昔話にしても、よい原話とのめぐり合いがまず大切で、それがすべてを決定するぐらいだけれども、選ぶ視点は何かという点になれば、やはり どこまで自分が生産点に立てるかということを抜きにしては考えられない。 『民話の世界』(講談社)1974 P148 あわせて松谷は口承を「そのまま次の世代に渡していくでのはなく、必然的に、そこには視点が必要(前掲書 P125)」だと書いており、どんな「視点」もしくは「思想」というものが昔話に魂を吹き込むのか、という部分の大切さを語っています。 「かちかち山」と戦争 それを考えると、さあ、今回の記事のとっかかりであげた、「打ち上げパーティー」で終わるという平田版の「かちかち山」にも、私は彼の思想性が現れていると思います。 彼の略歴を見ると、1939年に満州で生まれ、終戦前に帰国をしたようですが、戦中世代であります。 今までの発言を見ていくと、親中家であり、きっと先の戦争についてはいろいろと思っていることもあるんでしょう。 平田氏本人ではありませんが、彼の言葉として出版社の人が話している記事があります。 弊社のアニメ絵本は、アニメ絵本の先駆者である平田昭吾さんが手がけたもの。 平田さんは手塚治虫さんのお弟子さんだった方で、ポプラ社さんなどでも絵本を書かれています。 明治時代の国語の読本には、最後のうさぎの勝利ポーズが、第一次大戦の戦勝記念として描かれていますし、本によっては、直接国家観と結びつけた表現になっているものもあります。 此の兎の挙動は弱きを助け強きをくじくという義侠の心をよりいでたるものにていと感ずべきことにこそ(中略)つねづね義を重んじて勇をおこないて国家のためにつくす所あれよ これは私の穿った見方になりますが、平田は、うさぎ(もしくはおじいさん)の姿に、復讐に駆られる人間たちの姿を見たのではないでしょうか。 そしてそれは先の戦争のイメージともつながります。 彼の「誰も殺さない」というポリシーは、そこらへんからきているように思えてなりません。 彼のかちかち山の「再話」は、そんな思想から来ているのではないでしょうか。 なので、そういう点から考えても、この「かちかちやま」を、ただの「打ち上げパーティー」と称するのは、いかがなものかな、と思います。 とはいっても、私は平田版の「かちかちやま」に魅力があるかといわれると、うーんという感じです。 「かちかち山」は、小澤の言うように、「自然と人間の関係の原型を語っている話」が原点だと思います。 「敵討ち」という主題すら、それは日本が近代化していく中で改変されてきたテーマでしょう。 しかし原理主義的に追い詰めていくと、だったら室町時代まで遡っていこうとなり、そもそも「かちかち山」は「むぢなの敵討」と「兎の大手柄」が一緒になった話で…みたいにきりがなくなってしまいます。 「昔話はこうでなければならぬ」という原理主義的立場は、口承としての昔話の存在定義と相反しはしないでしょうか。 「語り」が「騙り」になっていくその妙が、昔話の面白さだと、私は感じるのですが。 解釈を拒絶して動じないものだけが美しい。 果たして我々は、次の時代にどんな「ばばあ汁」の味を継いでいくのでしょうか。 おまけ:ももたろうのラストについて ついでにこんな「ももたろう」のツイートもありました。 一昨日知ったんですけど、最近の昔話では桃太郎は鬼と戦わずに話し合いで決着をつけるらしいですね。 そんなん桃から生まれたコンサル太郎じゃん!きび談合…きび談合だよそれは! — メンメさん mememmememme いくつか最近の「ももたろう」の昔話を読みましたが、がんばって鬼と戦うものばかりで、こちらは発見することが出来ませんでした。 ツイート主もリプに書いたとおり、「きび談合」が言いたいだけの、ちょっとした居酒屋談義のネタでしょう。 私見を述べるなら、桃太郎の鬼退治のシーンは、「おにをなげとばす」とか「たたきつぶす」とか、非常に抽象的に描けるので、そんなに残酷にならないので、わざわざ鬼と戦わないシーンを作る必然性がないのでしょう。 ただ、後述するように、これは時代の流れと考えるよりかは平田の思想性の話であり、1985年から一貫していると考えると、これは1985年版のかちかちやまをとりあげた方がよいのかと思います。 あと、番組のイラストは、明らかに1985年の平田版を意識して描かれたものでしょう。 なので、以下のリストに載っているような、戦後のブランゲ文庫児童書のようなものはちょっと見られませんでした。 気が向いたときに手に入ったら追記でもします。 : 今回は、児童書や絵本などの子ども向けに限り、いわゆる「説話集」みたいなものや、各地の民話を取り扱ったような大人向けのものは省きました。 しかし、沼賀美奈子「江戸期から現代までの<かちかち山>絵本の変遷」(『白百合女子大学児童文化研究センター研究論文集V』)によれば、1998年までの絵本だけでも122点があるようで、正直に言えばサンプルスケールとしてはちょっと物足りないのは否めません。 まあ、私は別に論文発表するわけでもないので、参考程度に見てください。 : ただ、正確に言うのであれば、「しずんでしまいました」だけでは、本当に死んでしまったかどうかは不明です。 しずむ表現の中でも「海の底」という言葉を付け加えたり、その後のウサギのセリフで死を暗示させたりといろいろあるのですが、今回は「しずむ」描写があったものについてはすべて溺死としました。 : この区分は、あまり細かく分けるとサンプルスケールが小さいので、少し長めにとりましたが、どうしても時代ごとに冊数のばらつきは出ています。 戦後は、「もはや戦後ではない」の経済白書が出た1956年以前とし、以降バブル期までの1991年、最近のものとして2010年代と分けてみました。 : 『カナ日本ムカシバナシ』畑小鳥(冨文館)1925 : 同じ題名のが2つありますが、別バージョンのがあるのです。 : そもそもおばあさんが登場しない2件は省いたので、94件となっている : 『かちかちやま えいこう社の保育えほん』永晃社 1950 : 『日本のおとぎ話一年生』偕成社 1956 P110 : ところが、おばあさんは生きているのに、たぬきだけ死ぬバージョンもあります。 以下のひかりのくに社の絵本は、おばあさんは「ひっぱた」かれて「たおれ」るだけで死なないのに、 うみのなかでみえなくなってしまいました(P12) 『日本昔話えほん全集6 かちかち山 つるのおんがえし』ひかりのくに社 1982 と、たぬきは死んでいて、ちょっとオーバーキル気味です。 他にも2件ほどありますが、やっぱり、おばあさんが生きているのにたぬきが死ぬのはやりすぎだと思うのか、少数派です。 : しかし、1995年の早野美智代のかちかち山においては、おばあさんが殺されているにもかかわらず、たぬきが生き残っているように見える、珍しい作品となっています。 たぬきの生死については言及されていないので「不明」にしましたが、うさぎとのやりとりを見るに(「こら、たぬき、もうわるいいたずらはしないか」「ごめんなさい、もうしません」たぬきはあやまりました、で終わる)、生き残っている可能性が高そうに見えます。 : 国策ともからめられます。 かちかち山 狸の泥舟を沈めるところ。 この絵には第一次大戦の日英xドイツの戦勝記念を示しているとのこと。 「戦捷記念」とある。 : ただ、筆者はこのような残酷なおとぎ話自体には批判的ではありません。 童話はどこまでも童話であって、面白い話なのである。 その内容を心理的に考え、理智的に批判して、子供に及ぼす影響というようなことはなるべく考えない方がよいと思う。 (中略)事実的には子供の実生活として、極めて軽く読み流して行くというのであれば、お話に対する興味または文として現したものを自分の力で読みとって行くという力を作るためには面白いものだと思う。 『改正 小学国語読本の実際的取扱』P188 : 雛廼宇計木は江戸時代のもので、「勝々山」で掲載されています。 しかし、後世のものと同じく、たぬきは土船で沈む最期なので、筆者がなにをもって雛廼宇計木が「狸を許した」にしたのかがいまいちわかりません。 : 本論では触れませんでしたが、日中戦争以降(1932年)、当局による児童読み物への締め付けというのは厳しくなっていて、戦前・戦中の「かちかち山」への教育的配慮は、その観点からも考えることもできると思います。 例えば、1938年10月には「児童読物改 善二関スル指示要綱」が内務省から出され、「廃止スベキ事項」の中に、「内容ノ野卑、陰惨、猟奇的ニ渉ル読物」が含まれており、戦時下に出された「かちかち山」の内容は、その通達に配慮してということも考えられます。 ただ、その通達の前から配慮されている形跡が見られることや、そもそも社会的にそのような思想が受け入れられる(時局下とはいえ)素地なんかを含めて考えると、にわとりと卵になりそうなので、とりあえず本論には含みませんでした。 戦時下の児童読物の扱いについては、 がわかりやすい。 簡単にいうと、日本の口承昔話は、その「平面性(時間的な孤立、図形的、描写ではなく記述的など)」において、ヨーロッパのメルヘンと合致する、というような主張です。 : 1956年以降、たぬきの生存が割合として少なくなるのは、この二人の民話の研究家のおかげであると私は個人的に思います。 いわばこの時代は民話の再復興の段階にあったのではないでしょうか。 : こういう記事をあんまり載せたくもないんですけど : : おにのたいしょうもももたろうになげとばされ、いしうすがそのうえにどんとのってのびてしまった。 『むかしむかし ももたろう』松谷みよ子(童心社)2006 ゴチーンと、とくいの頭突きをくらわした 『まんが日本昔ばなし4 桃太郎』国際情報社 ももたろうは、きらりとかたなをぬいてとびこみました。 『みんなでよもう!日本・世界の昔話』こわせ・たまみ(チャイルド社)2008 ばったばったとおにをなげとばす 『よみきかせ日本昔話 ももたろう』石崎洋司(講談社)2012 ももたろうがかたなをぬいてせめいる 『フレーベルのえほん109 ももたろう』きみしまひさこ(フレーベル)1976 など。

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平田 たぬき

ナゾが一つ解けた! 大阪府高槻市の運送会社駐車場で13日午後11時30分ごろ、少女のむごたらしい遺体が発見された事件が急展開を見せた。 18日、少女は寝屋川市の中学1年、平田奈津美さん(13)と確認され、直前まで平田さんと行動していたとみられる同級生の星野凌斗くん(12)も行方不明になっていることが判明、当局は必死の捜索を続けている。 遺体の身元判明が遅れたのは、平田さんの行方不明者届が事件発生後に出されたからだった。 なぜもっと早く届け出なかったのか? 平田さんの周辺からその理由の一端が浮かび上がった。 大阪府警は、高槻市内で見つかった遺体と平田さんの指紋が一致したと発表した。 平田さんは同じ中学に通う星野くんと12日午後9時ごろから同10時半ごろまで、近所のコンビニにいたところを複数の人に目撃された。 2人の姿はさらに、13日午前1時から午前5時過ぎまで、京阪寝屋川市駅近くの商店街の防犯カメラに写っているが、その後の足取りは分かっていない。 13日午前6時ごろ、平田さんは友人とLINEでやりとりをしたが、その友人が同日午後6時に送ったLINEは既読がつかなかった。 失踪直前、平田さんは別の友人とのLINEで京都に行くと伝えていた。 平田さんと星野くんの友人Aさんによると、平田さんには、星野くんではない同級生の交際相手がおり、星野くんにも最近まで別の交際相手がいたため、2人の間に恋愛関係はなく、純粋な遊び仲間だったという。 事件以前も、平田さんが星野くんを誘う形で夜間に遊ぶことはあり、11日夜から12日朝にかけても平田さんは、星野くんとAさんと3人で駅前のベンチで過ごしていた。 別の同級生によれば、そもそも平田さんや友人たちは以前から、互いの家に泊まり合うことが多かったそうで、夏以降、平田さんは友人と金を出し合い、簡易テントを購入。 平田さんの自宅玄関前にテントを張って一夜を明かすこともあった。 そのテントは平田さんが失踪時に所持していた。 平田さんと星野くんの親が、寝屋川署に行方不明者届を出したのは14日の夜。 事件に巻き込まれたとみられる13日の午後7時ごろから、ほぼ1日たってからだった。 その理由は、平田さんが日常的に、夜は家にいないことが多く、テントを持ち出していたことなどから、泊まりで外出したと家族が思い込んでいたせいなのだろう。 だが、そこは最も多感な世代の少女だ。 夜遊びを繰り返す娘が心配にならないわけがない。 一方で、平田さんがそこまで夜間の外出を繰り返していたのはなぜなのか。 平田さん一家を知る人物が証言する。 「平田さんのお母さんは、しょっちゅう子供たちを大声で怒鳴り散らしていて、家を飛び出した奈津美さんがさらに『行くんなら早く行きなさい!』と鬼のように怒鳴られて近所の路上で泣いていたこともあります。 育て方としては教育の『き』の字もなく、とにかく怒るという感じでした。 あそこの家庭は子供たちをどこかへ連れて行ってやるというようなこともなかったので、自宅の敷地内に奈津美さんがテントを広げた時は、腹いせにやったのかなとも思いました」 近隣住民の話を総合すると、平田さんは4人姉妹の末っ子で、借家の自宅には2つ上の姉と両親と暮らしていた。 母親が朝から深夜まで働いて家計を支える一方、父親は家にいることが多かったという。 母親1人で家計を支えているのには、事情があるに違いない。 だが、近所から「仲のいい家族」とは思われていなかったようだ。 それよりも、別の意味で一家は目立つ存在だったという。 「お子さんたちが小学生のころは、子供が学校で怒られたり、友人とけんかしたりすると、お母さんがすぐ学校に抗議の電話をするので、先生たちも困っていました。 その評判は地域に広まっていたし、自分自身も怒られ続けていた奈津美さんは、年頃の女の子としてもお母さんに対してあまりいい感情を持っておらず、家にいたがらないようでした」(前出の人物) 自宅に居心地の良さを感じられず、夜も友人たちと遊ぶようになった平田さん。 友人によると、不良グループや、年の離れた者との交遊はなかったそうだ。 今回の事件と平田さんを取り巻く環境がどこかで結びついてしまっていたとすれば、あまりに残念だ。

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