ちくちく 言葉。 知ってる?「ふわふわ言葉」と「ちくちく言葉」ー思いやりのある子を育てる親子の会話ー

知ってる?「ふわふわ言葉」と「ちくちく言葉」ー思いやりのある子を育てる親子の会話ー

ちくちく 言葉

低学年のことば共同の時間に、「あったかことばとちくちくことば」をやりました。 「誰かに言われていやな気持ちになったことばって、あるかな?」 「あるある~!ババアとか」 「のろまとか」 「わあ、そんなふうに言われたら傷つくなあ。 きっとたくさんあると思うから、この紙に書いてみようか」 というわけで、思いつくままふせんに次々と書いていきました。 「ちびすけ」 「どけ」 「やくたたず」 「あほ」 「だまれ」 「しね」 「べんきょうしなさい」 などなど・・・ 読んでいるだけでなんだかしんどくなってきます。 子どもたち、こんな言葉を言われているんですね。 「なんだかつらい気持ちになってきたなあ。 こういうことばは『ちくちくことば』です。 じゃあ、今度は心があったかくなるようなことばを集めようか。 どんなことばがあるかな?」 「あそぼ、とか」 「だいすき、とか~」 また同じようにふせんにたくさん書いていきました。 「ありがとう」 「よかったなあ」 「ラッキー」 「だいじょうぶ」 「じょうずだね~」 「たのしかったね!」 「またあそぼ」 「ごめんね」 「おしゃれ~」 「すごい!」 などなど・・・ 中には、「送り迎えしてくれてありがとう」 「おいしかったよ。 また作ってね」 と、おうちの人に向けてのことばもありました。 友だちより、家族をイメージして考えていたんだなあと思いました。 そして、出てきたことばたちを、ハートや四つ葉の形の紙に、ていねいに書いていきました。 それを模造紙に思い思いの場所に貼り付けました。 できあがった模造紙をみんなで教室の壁に貼りつけました。 「なんか、ハートが四つ葉に囲まれて、守られてるみたい」 と、一人の子がつぶやいていました。 見ているだけで心があったかくなる、すてきな張り紙ができました。

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「ちくちく言葉」のない王国を作った息子の話│☆ありがとう☆で幸せと夢を叶えよう

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低学年のことば共同の時間に、「あったかことばとちくちくことば」をやりました。 「誰かに言われていやな気持ちになったことばって、あるかな?」 「あるある~!ババアとか」 「のろまとか」 「わあ、そんなふうに言われたら傷つくなあ。 きっとたくさんあると思うから、この紙に書いてみようか」 というわけで、思いつくままふせんに次々と書いていきました。 「ちびすけ」 「どけ」 「やくたたず」 「あほ」 「だまれ」 「しね」 「べんきょうしなさい」 などなど・・・ 読んでいるだけでなんだかしんどくなってきます。 子どもたち、こんな言葉を言われているんですね。 「なんだかつらい気持ちになってきたなあ。 こういうことばは『ちくちくことば』です。 じゃあ、今度は心があったかくなるようなことばを集めようか。 どんなことばがあるかな?」 「あそぼ、とか」 「だいすき、とか~」 また同じようにふせんにたくさん書いていきました。 「ありがとう」 「よかったなあ」 「ラッキー」 「だいじょうぶ」 「じょうずだね~」 「たのしかったね!」 「またあそぼ」 「ごめんね」 「おしゃれ~」 「すごい!」 などなど・・・ 中には、「送り迎えしてくれてありがとう」 「おいしかったよ。 また作ってね」 と、おうちの人に向けてのことばもありました。 友だちより、家族をイメージして考えていたんだなあと思いました。 そして、出てきたことばたちを、ハートや四つ葉の形の紙に、ていねいに書いていきました。 それを模造紙に思い思いの場所に貼り付けました。 できあがった模造紙をみんなで教室の壁に貼りつけました。 「なんか、ハートが四つ葉に囲まれて、守られてるみたい」 と、一人の子がつぶやいていました。 見ているだけで心があったかくなる、すてきな張り紙ができました。

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「ふわふわ言葉」と「ちくちく言葉」

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言葉が人間関係を壊してしまう 子供たちの言語環境の乱れがずっと気になっています。言葉の基礎基本が、崩れています。 ムカツク・イラツク キショイ ウザイ キレる はあーっ?! ムナシイ 終わってる ババア・ジジイ etc・・・ 上記以外にもたくさんあると思います。 いつの間にやら子供の間でも大人の間でも、聞いていて気分が悪くなる言葉が? 平然と? 人目(耳?)をはばからず、発せられるようになってしまっています。 ・ 1980年代の短小軽薄、いわゆる「お笑いブーム」以降、本音を口にすることが美徳であるかのような雰囲気が蔓延し、若い層を中心に心に浮かんだことをすぐに言ってしまう傾向が出てきたように思います。・・・ここで言う「昔」と「現代(今頃)」は、「お笑いブーム」の前後で分けることにしてみます。ハッキリといつからが境目なのかは言いにくいのですが、漫才ブームたけなわの1980年辺りが転換点であったように思います。この時期以降、いろんな方面でボーダレス化・タブーレス化が進みましだが、言葉の面でも1980年辺りを境にして、どんどんと悪い方向へ傾いていったように思います。 些細なことでもストレスを感じたらすぐに「自分がストレスを感じている」シグナルを表現してしまう。しかも、相手や周囲にとってあまり気持ちがいいとはいえない乱暴な言葉で。 ひと昔前ならこんな場面で自分の気持ちを口に出すには恥ずかしく、胸にしまいこんでいたのではないかと思われるようなケースでも今頃は平気で「乱暴な言葉」を使ってしまう。 このような言葉をどう表現したら良いでしょうか。 「ストレス語」「否定的な言語」「マイナス的な言語」・・・等いろいろと候補を考えてみましたが、以下、とりあえず「乱暴な言葉」と表すことにします。 単に我慢ができない子供が(大人もですが)増えたといってすまされるようなレベルではなく、日本社会全体の言語環境が危機的に乱れている状況なのではないかと感じています。 オーバーでしょうか? ネットで、街頭で、ヘイトスピーチがまかり通っています。 こんな悪い言語環境を子供たちに引き継がせるようではいけません。 2004年6月の長崎県佐世保市の小6女児殺害事件では、ネットでの加害者女児の裏の顔がクローズアップされましたが、「乱暴な言葉」の無自覚な使用が、子供たちの気持ちのもつれの原因の大きな要素だったのではないかと考えています。 報道よると、クラスもずいぶん荒れた状態だったように伝えられています(真実はわかりませんが)。 「乱暴な言葉」を無自覚に使っていて、まともな人間関係を築くことができるわけがありません。 人間固有のインターフェイスであるはずの言語の乱れを見直し、正していく努力が必要とされているのではないかと思います。 いわゆる「コミュニケーション不全」の一要素として、言葉の問題は大きいのではないかと考えています。 子供同士で「ウザイ」「キショイ」「ハア?」などとやり合っているのを見過ごしていると、それらはいつか、教師に向かって発せられるようになります。 危機感を持ちましょう。 」(または、イラツク)と、口にしてしまうる。ひどいときには絶え間なく連発する子供もいる。 例えば• ドッチボールをしていて、敵に当てられたら「ムカツク」• 工作をしていてボンドがうまくつかないと「ムカツク」• 人と話をしていて反対の意見を言われると「ムカツク」 大したストレスを受けたとは思えないような場面で簡単に「ムカツク」を発してしまう。 面を切って「ムカツク」といわれた相手もまた当然「ムカツク」でしょう。 本来ならそんなことでムカツクのは、ストレスに対する耐性がないと言う自分の弱さを人に見せてしまっているわけで、恥ずかしい言動、恥をさらしていることになるはずです。 乳幼児が「ムズカル」のと同様ではないかと思われます。それなのに、「ムカツク」を言ってしまう事の後ろめたさがお互いになくなってしまっています。 「ムカツ」いているのは本音であり、本音を晒していることはカッコイイことなのだという思考回路ができてしまったようです。 ムカツキが沸点に達したとき、キレる。• 簡単にキレる。人前でキレる。 あいつ、キレた。 一旦キレれば何をするか分からない。 自分を「キレた」と定義すれば、何をしても構わないのだというある意味甘ったれた思考回路がはたらいているようです。これも、幼児が道端で駄々をこねて泣いているのと変わらない状態です。感情の爆発は昔もあったのでしょうが、いわゆる「キレる」と表現される状態は、自暴自棄になってヒステリーを起こしていると言うのとは少し違ったニュアンスがあるのではないかと思います。 何が切れるというのでしょうか。 ひとつは自分の神経がプッツン(そういえば、「プッツン女優」なんて言葉もありました)すると言う意味だと思いますが、もうひとつが、その場所での自分と相手(当事者のみではなく周りの人も含めて)とのつながり・関係性が切れるというニュアンスも含まれているように思います。自分はその「場」とは「キレ」ているんだからどんな振る舞いをしてもいいんだと勝手に自分を「何でもありの状況」に位置付けてしまうわけです。何でもありだから、刃物で人を刺してもかまわない、という心理状況です。 自分たちで「キレる」という言い方で状態を共通認識することで、次に自分がキレた時の保険を払っているようにも思います。 みんながみんなお気に入りの仲間で楽しくやっていけるというような楽園はなかなかありません。 クラスの中で、気に入らない人が気に入らないことをしゃべる。それが、自分にとって気に入らないことであることを本人と意見を戦わすこともなく、または折れ合うこともなく、ひとこと「ウザイ」で片付けてしまう。 ちょっとした「やな」ことでも自分の気分や感性に合わなければ、「ウザイ」です。 サッカーの中田選手もマスコミに対して「ウザイ」を使っていました。それをかっこいいと思った若者、子供は少なくないと思います。 中田選手の気持ちはわからないでもありません。 ある面、自分よりも大きなシステムであるマスコミに対して「ウザイ」というレッテルを貼ろうと挑戦しているのですから、大したものだとさえも感じます。しかし、「孤高の天才、中田選手」と一般人は違います。一般人が自分よりも弱いものや小さなストレスに対して「ウザイ」という言葉を使うことによって相手を否定し、それによって自分(達)を正当化しようすることは、相当かっこ悪いように思えますが、言っている本人はカッコイイと思っているようです。 気に入らない相手が気に入らないことをしゃべる。そんな時、「はあー?」と、機嫌悪そうに聞き返します。一時期とんねるずがTV番組の中で多用していました。 これを放っておくと授業中に間違えた意見を言ったり、意見の相違があったりした時に平気で「はあーっ!?」が出るようになります。こうなると言った者勝ちの世界になり、勢力の強いものが弱いものを威嚇し、退ける手段としてこの言葉が使われるようになってしまいます。教師の話に対しても、気に入らないときには「はあー?」です。 なぜこんなに言語環境が乱れたのか 地域、学校、学級によって差はあるだろうが、一般的にこれらの事例に似た現象が全国どこの地域にも見られるのではないでしょうか。苦労して産み育てた子供に「ババア」と呼ばれる親はみじめで、愚かです。 限定していくつかの言葉の例を挙げましが、これらの他にも気にかかる言葉は数多くありますし、単語でなくても文章全体から感じられる「キツさ」も相当ひどくなってしまいました。 相手に対する冷たいトーン。 唯我独尊、不寛容、人を見下したような雰囲気。大人や先輩に対する非礼やタメ口。 相手を大事にすると言う建前社会が崩れ、自分の気分を撒き散らす。子供だけではなく、社会全体の言語環境が崩れているように思います。ある意味では他人に対して甘えているのであり、態度の幼稚化と言わざるを得ません。 昔から汚い言葉はあります。私自身も決して "品のいい言葉遣いをする人"の部類には入らないと思うし、礼儀が正しい人間でもありません。 例えば、関西では「ドアホ」を使うことがあります。 私も時々使いますが・・・。 ニュアンスによっては誉められている、または敬意さえ込められている。 敢えてドぎつい表現をすることによって、おかしみを出している。• 乱暴な言葉を使うことによって相手との距離感を縮め、親しみを表している。 等、「ドアホ」は乱暴であっても相手をある程度いい意味で捉えている表現である場合があります。 今ここで取り上げている「乱暴な言葉」の中にも関西の「ドアホ」の使われ方と似たニュアンスもありますが、同一には扱うことのできない危うさが含まれているように思います。 お互いの関係が良好なときに使う分には親近感もかもし出すかも知れませんが、一旦関係が険悪になったときに、「乱暴な言葉」は灯に油を注ぐ役目になります。 多分、2004年長崎小6少女の殺人事件もそうだったのではないかと思います。 加害者少女のHPに書かれていた言葉のやり取りは明らかに一線を超えてしまっています。 被害者の子供とは元々仲がよく、日常的な会話が荒れていたことが、仲たがいをした後に非常に悪い方向で作用していたのではないかと推測しています。 子供たちのコミュニケーションがタブーレスになってしまっている様に感じます。 言葉は文化であり、子供たちの文化は言語環境の中で育つ部分が大きいです。ここで挙げているような乱暴な言葉が日常的に交わされる環境で育つ子供たちがたいへん心配です。言ったら言ったで本人にもストレスがたまるでしょう。 まして直接的に言われた相手はたまったものではないでしょうし、間接的に聞いてしまう回りの子供たちにも大きなストレス源になるでしょう。 いつ、どこで「乱暴な言葉」をが生まれ、それを覚えてくるのか。 お笑いブームは言語環境に大きく(悪く)影響したと思います。 そしてお笑いだけではなく、ドラマやバラエティ等、TVを通じての影響は計り知れないものがあります。日本テレビで1994年ごろに放映されたドラマ「家なき子」の中学生女子の主人公(安達祐実)は、「同情するなら金をくれ」という名セリフ? を残しました。この主人公は男言葉を話し、降りかかる不幸をなりふり構わず乗り切っていき、ドラマは大ヒットを記録しました。その後もこのドラマのヒットを受けて女性が乱暴な言葉を使うドラマが続きました。この影響を受けて、小学校高学年女子の話し言葉が一斉に男性化し、乱暴になったように思います。 また、マスコミとは言えないかも知れませんが、新しいメディアとしてインターネットの掲示板などでも乱暴な言葉が確実に増殖していることも見逃せません。「逝ってよし」という言葉(死んでしまえ、消えろ、の意)も、インターネットが増殖させた言葉の一つです。 乱暴な言葉を使い始めるのはいつ頃でしょうか。小学校の低学年、2年生あたりでも顕著に見られる。ひどい場合には小学校未就学の子供が母親や祖母をつかまえて、「ババア」と呼んでいる場面にも出くわしたことがあります。 兄弟関係で姉や兄がいる子供の言葉は乱れている傾向があります。姉や兄との年齢差が大きいときにはさらにその傾向が強まります。高校生に兄弟がいる小学生の言葉はきまってよくないです。クラブや学童保育等で上級生と接する機会が多い子供も言葉遣いが悪くなることが多いです。言葉は伝染します。 上の学年から下の学年へ。 悪い文化の伝染・継承を断ち切るには・・・ 悪い文化(言語)が伝染することを断ち切るには、何をしていけばいいのでしょうか。家庭、学校の役割、そしてマスコミを含めた社会全体にそれぞれの責任と役割があるのではないかと思います。 家庭が取り組むべきこと まず家庭で、子供が乱暴な言葉を使っているかどうかを敏感に感じて欲しいと思います。 「乱暴な言葉」には必ず「初めて」があり、何かの場面で乱暴な言葉がふっと口について出てくるはずです。個々の子供の言葉の乱れを初期段階で察知できるのは学校よりむしろ家庭にあると思います。 子供たちは友達や先輩が乱暴な言葉を使っているのをどこかで聞いてきます。 その言葉に含まれているニュアンスを嗅ぎ分けて、自分も使ってみようと考えるようになります。そして、必ずどこかで初めて使ってみようとします。使い始めの時期があるはずです。 例えば1年生の子供が「ムカツク」と言う言葉を使ったとして、その場の感情を正確にきちんと表しているかどうかは微妙です。用例として正しくない場合も多いです。 たいていは母子げんかの場面や母からの何らかの指示が不服であった場面などで、腹を立てた子供が言い放つのではないかと思います。ものすごく腹が立って少々の暴言を吐いてしまうのは仕方がない場面はあるかもしれません。 しかし、小さい子供が意味もよく分からずに乱暴な言葉を使ったにしても、どれだけ腹が立っていた時に使ったにしても、言葉遣いとして正しくないと言うことは、ハッキリ示さなくてはいけません。 見逃してはいけません。 引き下がってはいけません。 ひるんでしまってはいけません。 断固として、親は間違った言葉をただすべきです。 母親で手におえなければ、父親もきちんと関わり、謝罪と訂正を求め、今後乱暴な言葉を使わない約束をするべきだと思います。何事でもそうですが、言葉の指導も初期段階の方が効果があります。家庭内で初めて使った時に、ぴしゃりと注意する。「こんな言葉使ってはまずい」と本人の心に呵責の念が残っているうちに指導すべきです。友達と一緒に常用、乱用するようになれば、手遅れになってしまいます。放っておくと、そのうち感覚が麻痺しだし、注意しても「だってみんな使っているもん」と受け流されるようになってしまいます。 社会に要請したいこと 子供は大人を映す鏡と言われていますが、子供の言語環境が乱れている状況は、大人の側が産み出しているのだという認識をまずしっかりと持つ事が必要だと思います。 責任の取り方を社会全体が考えていくべきだと思います。親の責任であるとか、学校の責任であるとか、責任を押し付けあっていても、何も始まりません。 とりわけマスコミがTVのバラエティ番組やドラマ・雑誌や漫画で「乱暴な言葉」をまるでファッションであるかのように垂れ流していることに、大人達はもっと敏感になる必要があるのではないでしょうか。1970年代であれば、子供に悪影響のある番組は何がしかの団体がチェックをかけていたように思います。子供に見せたくない俗悪番組ベストテンなどのアンケート結果が新聞に載っていた記憶があります。 番組内容に対する抗議もよくありました。私自身は子供の頃、そのような抗議に対してはあまり趣味のよくない行動であるような気がして新聞を眺めていました。 漫才ブームがおこり、ビートたけし、トンネルズ、ダウンタウンと人気者は移り変わり、「毒」づくことが魅力的であるかのような情報に浸って生きたのは私の世代あたりからだと思います。 そんな時代に反比例するように、硬派の抗議団体は、なりをひそめていきました。 今では硬派の団体が衰退してしまったことに危機感すら覚えています。 ニュース番組で教育を憂い批判する裏側で、「乱暴な言葉」をファッションにした番組を放映して視聴率に一喜一憂するマスコミの害悪はもっと批判されてもいいように思います。 大人自信の言葉が乱暴になっていることにも注意を払う必要があります。今の親の世代・若い先生は、自分自身が子供の前で、イラツク・ムカツク・ハァ?と平気で口にします。 私自身、「お笑い」は嫌いではなく、かなり感化されている部分があります。 乱暴な言葉が知らず知らずのうちにお互いの心を傷つけているのではないでしょうか。 テレビなどの影響も大きく、意味も分からずに使っている場合もあるかもしれません。 しかしこのような言葉を発する方も、耳にする方も、決していい気分になるものではありません。 子供たちの使っている言葉に耳を傾け、考えてみる必要を感じます。 言葉自身を禁止・規制することも必要かもしれませんが、同時に大人が子供たちの「心」にも目を向けてあげなくてはならないと思います。 上のような言葉をふだんの会話の中で使ってしまう子供たちの心の奥底にはさまざまな「ストレス」や「不安」があるのではないでしょうか。 思春期に差しかかる子供たちとどう向き合うのか。 ご家庭でも子供と一緒にお考えになる機会をお持ちください。 これは5年生の学年便りに載せた文章です。5月号か6月号にこのような文章を載せるので、そのときに同時に子供たちに対しての指導も行っています。 学年やその年々の子供達の質によって指導の方法は違ってくると思いますが、高学年であればプリントを配布し、どのような場面で言葉によって傷ついたり不快な気持ちになったかを文章で書かせ、それらを元に話し合う時間を持ち、考えさせます。 低学年であれば、人を傷つけたり不快にする言葉を「ギザギザことば」と命名して説明しています。 いずれにせよそれらの言葉を使うことを禁じ、乱暴な言葉を使うことの「気まずさ、恥ずかしさ」を自分が感じるようになることを求めます。同時に「乱暴な言葉」を使っている人に周囲が「気まずさ、恥ずかしさ」を感じさせることも求めます。 周囲が「そんな言い方は、よくないよ」「そんな言い方、やめて」と、言い方がおかしいことを指摘できるように指導します。 クラスの中で乱暴な言葉がまかり通ることの異常さを学級経営の早い時期に共通認識させるようにします。 強制的な言葉狩りに留まってはいても仕方がありません。 言葉が悪いという表面的な指導だけでは、根本的な問題の解決にはなりません。 よいクラス、よい社会を作っていくための人との関係の持ち方、心のあり方の問題として、年間を通じて根気のよい指導が必要だと思います。 学校内で教師間に言語環境の整備についての共通認識が必要です。 ある学級では先生とは友達づきあいで「タメ口」をきき、乱暴な言葉を学級の中でも使う。ある学級では先生にはきちんと話し、乱暴な言葉も控えている。 そんな使い分けが子供達の中にあるのは、ある程度仕方のない部分もあるようにも思えます。 それも子供にとっては社会勉強でもあるかも知れません。タメ口や乱暴な言葉を使うことを許してくれる先生が子供の気持ちをよくわかってくれる先生である場合もあるでしょう(一般的に若い先生ですね)。 名前の後ろに「~君」「~さん」の敬称をつけるのかつけないのか、担任によってずいぶん見解が違うものです。• 学校内外のどんな場面でも絶対につけるように要求する。• 学校内ではつけるように要求する。• 公式な場面 先生との会話・授業中等 ではつけるよう要求する。• 一応要求はするがあいまいに。 要求しない。• 敬称などどうでもいい。• 担任が子供を呼ぶときに敬称をつける。 担任が子供を呼ぶときに敬称をつけない。 担任が子供を呼ぶときに敬称をつけたりつけなかったりする。 敬称についてだけでも一体どれがよいのか、ハッキリとした見解の一致が見られている学校は少ないだろうし、見解を一致させることはなかなか難しいかもしれません。 教師によってやり方の違いはあるのは、仕方ない面もあります。 しかし全く議論もせず、指導しないのはまずいと思います。これは程度の問題であり、野放図に言語環境の乱れを許してしまったのではいけないと思います。子供たちは学校の中で大人に対してとるべき態度や敬語を学ぶ必要があります。「親しき仲にも礼儀あり」をきちんと教えるべきです。特に学級の中で、「乱暴な言葉」がまかり通り、日常的に荒れた状態があったときにはどの教師もそこそこの一致した指導ができるようにしたほうがよいと思います。 日ごろから教師間で言語環境についての話し合いをする機会が必要なのではないかと思います。 ギザギザ言葉 低学年の子供に 「ギザギザ言葉」「マイナス発言」「ちくちく言葉」などとネーミングして教えておけば、互いに乱暴な言葉が出てきたときに「あっ、それはギザギザ言葉!使っちゃダメ!」と注意しあうことができます。低い学年できちんと指導がされ、指導が継続された場合には必ず成果をあらわしてきます。逆に高学年から指導となってくると、の効果を上げるのはなかなか難しくなってきます。 最優先課題として いずれにせよ、言葉や態度の指導は時間がかかります。 教師側が注意深くなり、折に触れて指導をしていかなくてはいけないし、教師が連携しなくてはできません。 とても難しい類の指導です。 その上、指導に対して具体的な成果を測定して因果関係を証明するということもできにくいです。しかし、この数年を振り返って見ると、比較的きちんとした言葉を使うことのできる学級集団・学年集団・学校は比較的穏やかであるのは間違いありません。家庭や社会との連携も含めて、学校側の責任として、最優先課題として言語環境の正常化にしっかりと取り組む必要があると思います。言語環境を整備することは、学級にとっての 重要なインフラ整備の一つです。 気持ちの良い言葉も指導しましょう 逆に、相手や周りが聞いて、気持ちがいい言葉、気持ちが優しくなれる言葉についての指導もしましょう。 「ありがとう」「ごめんね」「お先にどうぞ」「また遊ぼうね」「がんばれ」等、子供たちから言われてうれしかった言葉をださせて 「ふわふわ言葉」や「プラス発言」などと名前を付けておけばよいと思います。 言葉は大切です。 コメント• 小学生生一児の父親です。 本稿大変興味深く拝読しました。 「乱暴な言葉」について数多くの具体的な言葉の実例があり、学校教育の現場の難しい状況を察するとともに、一児の親として大きな参考になりました。 ありがとうございます。 現状への解釈について意見があります。 まず子どもたちの言葉遣いが「悪くなっている」、という本稿の前提は違うと思いました。 理由は「悪い」とか「正しい」という概念自体、本来相対的な価値判断であることに加えて、「ひと昔と比べて悪くなっている」というのは、「ひと昔は正しかった」という基準で、「悪くなっている」と判断されているからです。 いまの子どもたちから見れば、ひと昔前の事は見も知りもしない話しで、「悪くなってる」なんて思われても、到底理解できないのではないでしょうか。 問題とする「乱暴な言葉」の当事者は子どもなので、解決策を模索するとき子どもたちの目線と立場を基準に考えなければ、世代を隔てたコミュニケーションに心を通わせる事は不可能と思います。 先生や我々親の世代の子どもの頃の時代はどうだったか、今の子ども達にとってそれは「知ったこっちゃない話し」です。 なぜ親の世代になって自分がそう断言できるか?私が子どもの頃、そう思っていたからです。 社会は悪くなっているのではなく、変化している、と考えます。 変化の中で良くなった点と悪くなった点があると。 それを具体的に紐解くには社会学の著作物を最新まで目を通さなければならなくなります。 社会が悪くなっている、アレもコレもと挙げてもただの不平不満の言葉としか聞こえなくなります。 実際子どもたちの言葉遣いが変化しているのは、より「攻撃的」になっていると思います。 攻撃的な言葉は悪目立ちします。 いっとき生徒間で笑いウケを集めるでしょう。 サッカー中田選手の実例がありましたが、彼だけでなくイチロー選手や本多圭介選手、音楽のアーティストなど「口の悪い憧れの人」は大勢います。 でもそれは今に始まったことでしょうか? ビートルズとかローリングストーンズ、石原裕次郎、小林旭、ベトナム戦争やウッドストック、、、ひと昔前の社会は今より健全だったでしょうか? 悪目立ちするスター達と、「佐世保市小学生殺人事件」の加害者の小学生の共通点は何でしょうか? 無いです。 複数のエビデンスが空中分解してます。 結論を申し上げると、失礼ながら「本稿の筆者は混乱しているのでは?」というのが、率直な感想です。 親の立場として自分の考える一部を最後に。 言葉は変化します。 ジェンダー格差排除の気運の中で、男女の言葉遣いに差が必要なのか?敬語はどうなるのか? 世界標準言語の英語には無いこれらの要素を、我々日本人だけがなぜ重要視しているのか? 80年代に子どもだった世代が今、親になっている。 当時のモーレツ勤労社会で、晩ごはんの食卓に親父がいなかった世代だったんじゃないか? その親父不在のディスコミュニケーションのツケを今の子ども達が受けているのではないだろうか? テクノロジーの発展で変化し続けて、日本社会は急発展後の精神整理が間に合っていないのかもしれない。 間違いなく社会や文化は入り乱れ、混乱している。 社会学で「リキッド化」という表現があるそうです でもそういう混乱の中、親として子どもにどう接すればいいのか? ひとつ言える事は、「分かったような顔」をして「上から」言葉を発しては絶対にいけない、ということではないだろうか。 地に足を付ける努力をしながら、子どもと向き合った時は、今できる限りの愛情で言葉を伝えていこう。 地球を覆う大気の元、バクテリアが進化を繰り返して今に至る。 そういうスケールで見れば、今の時代を共に生きる親と子の世代差なんて誤差程度のもの。 上も下も無い。 すべて自分ごと。 だから、一緒にがんばろ?と。 自分はそう考えます。

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