新宿 ブリーカー。 タイガー・ジェット・シン

タイガー・ジェット・シン

新宿 ブリーカー

概要 [ ] タイガー・ジェット・シンのニックネームは「 インドの猛虎(狂虎)」「 狂える虎」。 息子のもプロレスラーであり、のリングでも活動した。 のを振りかざす姿で一世を風靡した。 しかし、ここぞという場面では正統派を見せ、らトップクラスのレスラーにも勝利している。 言動には独自の哲学を徹底して貫いており、多くの関係者から一目置かれる存在となっている。 日本国外や地元ではとして活躍を続ける一方、プロレス以外の様々な事業を経営している。 プロレス業界のみならず、財界、政界とも繋がりがあり、北米インド人社会では最も著名な人物の一人である。 来歴 [ ] 来日前(〜1973年) にでデビューし、その後に渡ったという説があるが定かではない。 のアメリカ修行時代の師匠で知られたに正統派レスリングを徹底的に叩き込まれ、1965年にトロントでデビュー(ここからのプロフィールははっきりしている)。 翌には師匠のアトキンスとのタッグで同地区のインターナショナルタッグ王座を奪取する。 日本では全く無名の存在であったが、6月にを破ってトロント地区のUSヘビー級王座を獲得すると、当時のトロント地区で完全にメインイベンターの地位を確立。 同年には世界王者に1度、WWWF(現)世界王者に2度挑戦している。 ベビーフェイスに転向するとさらに人気は増し、2月に行われたとのでは18000人を超える観衆を集め、当時の年収は約8万ドルにも達していたという。 初来日直前はを主戦場とし、らとツアーを同行する。 この出会いがきっかけで、後にシンは日本で大成功を収める(後述する)。 新日本プロレス参戦期(1973 - 1981年) 5月に初来日(後述する)し、アントニオ猪木らと因縁の抗争劇を繰り広げ一躍外国人レスラーのトップとなる。 よりに幾度も挑戦し、一時は王者猪木を破り新チャンピオンとなる。 またNWF抗争と並行し、新設アジアヘビー級選手権および同タッグ選手権などのローカルタイトルも次々と獲得する。 特に2月より結成されたとの極悪コンビの暴れっぷりは凄まじく、また両者は同じ悪役同士ウマが合ったことより以後公私に渡り生涯の友となる。 にはファン投票一位で 後述する に選ばれ、メインイベントに登場する。 後に、といった外国人レスラーが頭角を現す一方でシンの人気が徐々に下降するのに伴い、猪木との抗争はNWFからへとシフト。 には犬猿の仲とされるの参戦が決定し、これを機に同年4月第4回の参加を最後に新日本プロレスを去る。 シンに言わせると、「なぜ今さらブッチャーが必要なのか?俺は新日本プロレスのオフィスが信用できなくなったから去った」とのことである。 全日本プロレス参戦期(1981 - 1990年) アブドーラ・ザ・ブッチャーを新日本プロレスへ引き抜かれた格好となったと『』の放映局であったは、直ちに報復工作としてシンとスタン・ハンセンの引き抜き工作を開始し、ジャイアント馬場と『全日本プロレス中継』のプロデューサーであった原章が、シンを引く抜くべくトロントへ向かった(同時に馬場と原は、スタン・ハンセンの引き抜き工作のため、にも向かっている)。 7月3日の全日本プロレス「'81サマー・アクション・シリーズ」にマネージャーのと共に乱入し、翌7月4日から全日本に正式参戦。 1980年代前半はザ・シークやら外国人選手との対戦で、シンの持ち味が発揮されることがあったが、ほぼ同時期に新日本プロレスから移籍したスタン・ハンセンらの影に隠れ、全日本プロレスでは精彩を欠く存在であった。 の国内デビュー戦の相手に抜擢されたり、全日本プロレスにUターンしたアブドーラ・ザ・ブッチャーとの凶悪タッグを結成するものの、人気低下に歯止めがかからず、一時的な話題を提供するだけに留まった。 特に1980年代後半は以前と比べると流血試合が大幅に減った上に体重が増加し、シンの売りであるスピーディーな暴れっぷりは徐々に衰えていった。 新日本プロレス復帰(1990 - 1992年) 9月に行われたアントニオ猪木デビュー30周年記念イベントにおいて、永遠のライバル猪木と一夜限りの特別タッグを組み、興行に花を添えた。 これを機に新日本プロレスへ復帰を果たすも体力的な衰えは隠せず、台頭してきた闘魂三銃士との試合もかみ合わずじまいで、メインイベンターからは遠退いていった。 また、アントニオ猪木デビュー30周年に合わせ、なる親睦団体兼新タイトルが設けられ、シンは開設当初からメンバーだったものの後に除名されたり 猪木とのシングルマッチの権利を奪われたりと不遇が重なった。 ただし全日本プロレス時代に比べて、シンの暴れっぷりはむしろ復活していた。 シンより1〜2世代若い、等のレスラーを次々と血祭りにあげたり、場外ではが所有する自動車をバットでメッタ打ちにしその因縁から馳と を行うなど、自らの健在ぶりをアピールした。 インディーズ時代(1992年 - ) にに参戦。 マッチを始め、過激なデスマッチ路線を邁進していたこの団体においてシンは、水を得た魚の如く蘇り大活躍をした。 FMWのリングでは、大仁田と、でのノーピープル電流爆破デスマッチ等多数の名勝負を繰り広げ、息子のアリ・シン(当時はタイガー・ジェット・シン・ジュニアを名乗った)と組んでタッグリーグ戦に参加した。 また、シンをFMWに呼び寄せたともされたザ・シークともコンビを結成したが、後に仲間割れした。 その後に参戦し、上田馬之助とのタッグを復活させたが後に仲間割れし、一転して抗争状態に。 さらに参戦したではベビーフェイスになってと抗争するなど、インディー団体を中心に転戦し続けた。 近年の来日ではでと戦い、敗れはしたものの小川を流血させた。 その後、、、などと戦い、彼らを血祭りにあげた。 還暦を遥かに過ぎたとは思えぬスピードとスタミナ、自分の子供のような世代のレスラー達を狂乱ファイトで痛め続け、狂虎健在ぶりをアピールしている。 2009年7月26日にはハッスル・両国国技館大会においてアブドーラ・ザ・ブッチャーと1989年以来20年ぶりのタッグを結成するも、お約束の同士討ちにより、シンがフォール負け。 同大会の因縁勃発を受け、同月30日には19年ぶりにブッチャーとの一騎討ちを展開。 試合のほぼすべてが場外戦の末、無効試合となった。 8月27日、復興イベント『』に登場。 恒例の猪木劇場において、ブッチャーとともにアントニオ猪木を襲撃した。 2011年12月27日、『』では、相棒だった上田馬之助の遺影を持ってリングに上がり、故人を称えた。 和製タイガー・ジェット・シン〜作られたヒール [ ]• 、アントニオ猪木を代表にが創立されるが、しばらくはと(後に全日本プロレス)、ととの協定により、当時人気のあった外国人選手のほとんどは、新日本プロレスへの参戦が事実上不可能であった。 また、創立間もない新日本プロレスは高額のギャラを外国人レスラーに払える状況では無く、無名の選手を育て上げるという手法に依存せざるを得なかった。 タイガー・ジェット・シンを新日本プロレスに売り込んだのは、当時インドと独自のネットワークを築いていた吉田なる貿易商とされる。 香港でシンの試合を観戦し、新日本側に紹介した。 猪木が無名外国人選手のプロフィールに目を通している時に、口にナイフを咥えているシンの写真に注目した。 この時猪木は、「ナイフじゃなくどうせならでも咥えさせてみろ」と語ったという。 このような状況で、シンは初来日した。 ただし、本来は同年7月からのシリーズに参戦する予定だったのが、新日本プロレス渉外担当者の手続きに間違いがあり、シンは二か月早く来日してしまった。 そこで同年5月4日、会場のの客席にシンを招いた。 新日本プロレスにしてみれば、「手違いとはいえ、せっかく来日したのだから日本のプロレスを生で見てもらおう」という、シンに対する配慮だった。 ところがこの日の対スティーブ・リッカードの試合中、シンは突如乱入し、山本小鉄をメッタ打ちにした。 この時はは巻いていたが、サーベルは持っていなかった。 この様子を見た猪木は目玉レスラーになると考え、急遽渉外担当に命じシンを一旦へ向かわせ、業務用を受けた後に日本へ戻るよう指示した。 その間新日本プロレスは前述の猪木案を実現すべく、日本国内でサーベルを手配し、日本に戻ってきたシンに与えた。 ヒールとして日本で活躍することを望んでいたシンは、大いに喜んだという。 既述の通りシンとスティーブ・リッカードは来日前から面識があったため、当初のシンはリッカードのセコンド役という位置づけだったが、その尋常ではない暴れっぷりに人気が集中し、シリーズ終盤にはついに対猪木との初シングル戦が実現した。 このような経緯を経て、ターバンを巻きサーベルを振りかざすという、タイガー・ジェット・シン独自のスタイルが確立されたが、当時の新日本プロレスは、「タイガー・ジェット・シンは勝手に日本に来た。 決して新日本プロレスが招いたわけでは無い」との旨のでシンを売り込んだ。 このギミックについて当時のはシンを「 謎の怪人」「 狂人(後述する)」等と報道し、一応の成功を収めた。 後に「 インドの猛虎」「 狂虎」といった表現に落ち着く。 「襲撃事件」と「腕折り事件」 [ ]• 11月5日、タイガー・ジェット・シンは2度目の来日中にら外国人レスラー数名と組み、(当時の猪木夫人)と買い物中だったアントニオ猪木を前で襲撃し、猪木はガードレールやタクシーのボンネットに頭からぶつけられ負傷・流血した。 平日の夕刻、大勢の帰宅客で賑わっていた最中での出来事であり、一般の目撃者から警察にも通報された。 新日本プロレスに対するの対応は、「本当の喧嘩であれば猪木はシンを傷害罪で告発し、被害届を出せ。 やらせであれば、違反(道路無許可使用)で新日本プロレスを処分する」という厳しいものだった。 これに対し新日本プロレスは、「やらせではない。 シンは契約選手なので傷害罪で告発することは出来ないが、騒ぎを起こしたことは申し訳なく、お詫びなら幾らでもする」と始末書を提出し、事件は新日本プロレスに対する厳重注意で収まった。 この事件はプロレスファンから広く一般まで話題となり 、シンは本当に狂っているのではないか(後述)という印象を強く与えた。 以後猪木はリング上で制裁を加えると公言し、猪木対シンの試合は「因縁の闘い」として世間の注目を集めることとなった。 事件直後の1973年11月16日、中島スポーツセンターで超満員の中猪木と二度目の一騎討ちが実現。 両者大流血の喧嘩ファイトとなった。 それまでの猪木のファイトは正統派スタイルを売りにしていたが、対シン戦で猪木が見せた喧嘩ファイトは猪木の新たな魅力を引き出し、ファンの増加をもたらした。 またシンという絶対悪が存在する限り、日本人受けが良いとされる勧善懲悪の世界を築くことができた。 これら一連のシン効果により、新日本プロレスはメジャー団体への階段を昇る。 6月、王者猪木(当時)とのタイトルマッチ2連戦は、両者の遺恨がピークに達した試合と後に語り継がれる。 同年6月20日・においてシンは、猪木の顔面に火炎攻撃を仕掛けサーベルで滅多打ちにした。 猪木はタイトルこそ反則勝ち防衛したものの、左目と頭部を負傷した。 その傷が完治しないまま6日後の6月26日での60分3本勝負は、1本目がシンの徹底した反則攻撃により猪木は大流血。 2本目に猪木の怒りが頂点に達し、シンの右腕に狙いを定めると鉄柱攻撃やアームブリーカーなどで集中的に攻め続けた。 最後はシンの右腕を骨折させ、ドクターストップの末猪木がタイトルを連続防衛し、ここに両者の遺恨に一旦終止符が打たれた。 双方の攻防は、いずれも一歩間違えればレスラー生命に関わる激しいものであったが、両者には互いが共栄していくためには、超えてはならない一線を超えることも是とする暗黙の了解があったとされる。 当時の猪木は日本プロレスを追放されたも同然の身で、ライバル団体の全日本プロレスに追いつき追い越したいという野望があり、シンも新天地日本でトップヒールとして開花したいという、両者の強烈なハングリー精神が共感した上で、前述の遺恨試合2連戦が展開された。 特に第二戦の大阪府立体育館においては、猪木対シンの試合開始1、2時間前から会場は超満員(8,900人)の観客で溢れ、入場出来なかった多くの熱心なファンが係員と押し問答となったり、ダフ屋では1,000円のチケットに5,000円の値がついたりと場外でも話題は尽きなかった。 また、試合を生で観戦した者は「会場全体が、これから殺し合いでも始まるのではないかという異様な熱気と興奮に包まれていた」と当時の様子を回顧する。 後年新宿伊勢丹襲撃について、各関係者は以下のように証言する。 -猪木夫妻が了解済みの作りであった。 -「やらせと本物のケンカ、どっちも正解だ。 当時の新日本プロレスに密告者がいて、プライベートの猪木を襲ってみてはとけしかけられたのは事実だ。 ただし我々はある程度良識の範囲内での襲撃を想定していたのだが、途中からシンが本気になってしまった。 『オレ(シン)は世界一のヒールになるんだ』とあの日のシンは間違いなく理性を失っていた。 」とシンの予定外の暴挙が騒動に発展したことを明かしている。 アントニオ猪木-「会社の誰かが俺のスケジュールをシンに教えてけしかけていた可能性はあると思う。 あの頃、新日本プロレスの社員はみんな必死にいろんなことを考えていたから、俺に内緒でそういうことを仕掛けるくらいのことはやりかねなかった。 」 人物 [ ] ウィキクォートにがあります。 によると、初来日時におけるでの自身の週給は3000ドルであり、最終額は8000ドル。 は著書の中で、シンが狂人どころか非常に聡明で紳士的な人間であることを強調しており、ヒールとしてのキャラクターは完全に演技であることを明かしている(先述の通りインド社会では名士として知られており、インドで募金活動をするなど、善意や篤志もある)。 「手が付けられないほど、試合中に本当に狂ってしまったのは猪木」とも証言されている。 が巡業先のスポンサーの社長宅で、バーベキューに呼ばれたことがあった。 社長は「どうせなら外国人レスラーも連れてきてよ」と言い、当時外国人選手係でもあった山本小鉄は、シンと一緒に赴いた。 シンはターバンにスーツという、インド式の正装であった。 そのうちバーベキューの火力が強くなり、段々汗ばんできたきたシンは、「社長、上着を脱いでもよろしいでしょうか」と一言断りを入れたという。 シンの紳士ぶりを象徴する一例である。 の地区はインド系住民の多い地であり(トロントの項にあるの欄を参照)、この地でのシンは、デビュー直後の数年間を除いて一貫してである。 またアメリカのなどでザ・シークと対戦する際もベビーフェイスとして活動している。 ヒールとしてのモデルはザ・シークであり、狂人キャラを貫く点、決してプライベートを明かさない点にそれが見える。 リングの内外を問わず、大変な倹約家として知られる。 トロントでの事業が成功した大きな要因であり、それを物語る一例としてシンと親しいある日本人プロレス記者は、「(シンがメインを取っていた全盛期の頃)週に100万円稼ぐシンが(来日中に)使う金は一日5,000円以下だった」と語る。 1977年1月、が新日本に初参戦した当時、外国人レスラーのエース格としてシンが君臨していた。 この頃のハンセンは「の首を折った男」との売り込みで多少の知名度はあったものの、先に参戦していた全日本においては「馬力だけの不器用なレスラー」との烙印を押されていた二流レスラーの扱いであった。 そんなハンセンがシンとツアーを同行するうちに多大な影響を受けることになる。 普段は物静かで寡黙なシンがリングに向かう時は急変して大暴れしながら入場、さらに欧米では考えられない観客を追い回し時に暴行を加えるシーンなどがそれで、すぐにハンセンも自分のスタイルとして取り入れるようになる。 後にハンセンはシンとの関係についてこのように語る。 「それまで見たことのないシンのナチュラルな暴れっぷりに、プロとして大きな感銘を受けた。 『ブレーキの壊れたダンプカー』というフレーズは間違いなくシンの影響だ。 後に猪木からNWF王座を奪うことになり、この時初めて俺(ハンセン)は外国人レスラーのトップになったという実感が湧いてきた。 は別格として、シンを超えたことが大きな喜びだった。 俺にとってシンは親友ではないが、大きな存在であったことは間違いない」• シンとハンセンは新日本・全日本通算で10年以上もツアーを同行することになるが、その割にリング内での絡みは非常に少ない。 決して不仲ということではなく、血で血を洗うような惨劇に発展しにくかったのはハンセンのシンに対するリスペクトが大きい。 事実この両者は極めて尖ったキャラクターでありながら、ツアー移動中のプライベートでは一緒に一枚の写真に収まっていることが多い。 かつてメインをとっていた全盛期は、「会場にいる者全てが俺の敵だ、だから俺は観客でもカメラマンでも殴る」と、自身のヒール哲学を徹底的に貫いていたシンだが、体力的な衰えとかつての盟友だった上田馬之助のが転機となり、ファンに愛されるヒールに転向。 リビングレジェンドのイメージが色濃くなった近年は、観客に暴行を加え、それでなおかつファンに敬愛されるという唯一無二のキャラクターを確立している。 プロレスの楽しみ方も多様化し、1970-1980年代のように本気でシンを怖がって逃げるファンは減り、逆にシンに襲われることを一種のステータスと認めている新しい世代のファンが増えている。 1990年代後半からはしばしばサイン会等を行い、ファンとの交流に努めている。 また、らとCDアルバム『愛が地球を救うのだ』を発表し、アニメ『』の主題歌を熱唱したり、バラエティ番組『』にゲスト出演したりと、プロレス以外のメディアでも活躍。 初来日時から関係者でも容易に近付けない雰囲気を放っていたが、実際は電話魔であり大の写真好き。 暇さえあればカメラマンを呼び付けては自身の写真撮影を要求していた。 リングアナは若い頃、新日本プロレスのリング上でプロレスラーに暴行を受けることがしばしばあった。 そのことについて自身のブログで、「シンが僕を襲う場合は悪役としての、プロとしての信念や魂のようなものを感じられた。 シンが襲いに来るか否かは雰囲気で分かるようになったし、襲われると分かっていても僕は逃げなかった。 シンが悪役のプロなら僕はシンに襲われるプロだ。 しかし、の場合は単に殴られ損だったので、すぐに逃げた」と語る。 来日間もない頃は英会話が苦手であり、いわゆるブロークン・イングリッシュで発音していたため、日本人には却って聞き取りやすかった。 ある日本人プロレス記者は、「陽気にペラペラ喋りたてるアメリカンと違い、シンの英語は不思議と誠意が伝わってくる」とも語る。 2007年ハッスルの青森大会辺りから昔以上に凶悪度が増し始める。 青森大会では対戦した選手が瀕死の大流血に陥り、他の大会(主に後楽園ホール)では女性客にサーベルを突き刺したり、OLを椅子で殴るなどの狂乱ファイトに、観客の子供は泣き叫びカップルは逃げ惑い、果ては客席で観戦していたスポンサーのお偉いさんも襲われるなど阿鼻叫喚の往年のシンの世界を展開させている。 また、60を過ぎた肉体にもかかわらず筋骨隆々で100kgを超える選手にいまでもを掛ける。 日本ではシンにブッチャーとザ・シークを加え、「世界三大ヒール」等と称されることが多い。 相手選手を反則攻撃で痛めつけ、凶器で流血させるという全盛期の基本的なスタイルは共通しているものの、三者とも独自のキャラクターをしっかりと築いていた。 ある日本人プロレス記者は、ザ・シークはレスラー仲間から尊敬されるヒール、ブッチャーはファンに愛されるヒール、そしてシンはファンに恐怖を与えるヒールと大別する。 日本における三者の全盛期は多少の差異はあるものの、一般的に1970-1980年代とされる。 この頃、悪の限りを尽くしながらもブッチャーは絶大な人気を誇り、同じくシークは年齢的にピークを過ぎていたものの、としてビジネスをしっかりこなしていた。 同じ頃シンは、既述の新宿伊勢丹襲撃事件を筆頭に観客や記者への暴行等を繰り返し、やがてリングの外でもヒールというキャラクターを貫いた。 ブッチャーやシークは概ね試合中でのみ凶行に及び、リングを降りるとインタビューや写真撮影等に気さくに応じていたのに対し、シンの場合は控え室や移動中等でもファンや関係者をしばしば襲っていた。 その様子がメディアを通じて知られるようになり、唯一無二の恐怖を与えるヒールを確立した。 またブッチャーとシークは、小型の鋭利な凶器で相手を静的に流血させることがほとんどであったが、三者の中で最も若く長身なシンは、小型の凶器からテーブル、テレビカメラの三脚、竹箒、三連パイプイス等と大型の凶器までを動的に使いこなし、リング狭しとスピーディーに暴れるスタイルが特徴であった。 一時は手錠で相手の自由を奪ったり火を放ったりと演出も豊富であった。 この違いについてアントニオ猪木は、「ブッチャーとシークのスタイルは残酷ショーだが、シンはそれと違う」と語る。 息子タイガー・アリ・シンらが幼少期の頃、来日に伴いシンが留守のときは家はジット夫人が守ることとなった。 躾に厳しい母が常駐する一方、久方ぶりにシンが帰国したら幼い息子らをつい溺愛してしまう。 そのため息子アリ・シンらにとっては、「家では母(ジット夫人)が悪役」であった。 ただしケンカに負けて帰ってくると普段は優しい父シンも、「白人のガキどもなんかもっとブッ飛ばせ」と激怒していた。 2018年の時点でも狂人のギミックを守り抜いており、それ故に建前を取っ払った内容にする必要のある自伝を製作・許可しないと言われている。 実際2010年代前半から半ば頃に企画されたものの、断念される結果に終わっている。 得意技 [ ] コブラクロー シンのとも称される技で、フォール勝ちのほとんどをこの技で収めている。 建前上は、指を2本折り曲げてVの字を作った状態でに押し当てて相手を状態に陥れる合法的な技とされるが、実際は攻撃(反則)に過ぎなかった。 しかし、前述の通り創立間もない頃の新日本プロレスは、営業面でシンを看板選手として売り込む必要があり、彼の残虐性と実力とをビジュアル的にアピールすべく、コブラクローを反則としない暗黙の了解があったとされる。 そのため新日本プロレスが名付け親の感が強く、それを嫌ってか、移籍後はこの技を「タイガークロー」と呼ぶ解説者もいた。 他にこの技の使い手はほとんど見られない。 この技の繰り出し方は主に3通りある。 相手がリング中央にいる時 相手を蹴る、あるいは殴る等をして相手が一瞬無防備になった隙に仕掛けるが、あまり決定打にはならない。 相手をロープに振ってで仕掛ける このパターンで多くのフォール勝ちを納めている。 ただし、技に入る直前のモーションが大きく、それを見抜かれて相手にかわされることもしばしばある。 まずロープ際の相手にコブラクローを仕掛ける。 相手はロープを掴むので、はロープブレイクを宣言するがシンはそれに応じない。 この時点で反則には違いないので、完全なチョーク攻撃へとシフトする。 反則負けとされるカウント5の直前に、一瞬手を緩め、反則カウントをリセットさせ、またチョークを仕掛ける。 これを繰り返している間に、自然と両者は徐々にの外へと移動し、やがてへ達する。 次に、エプロンからはみ出た相手の頭部を、さらに下方の場外へと向けて締め下ろし、同様に反則カウント5をとられないようにこれを繰り返し、最終的に相手が場外へ落ち、直後に場外乱闘へと発展する。 本来の意味での「脳天砕き」とは異なり、相手を大きく後方に投げる技ではあるが、しばしばこれで勝ちを収めている。 ただしがあまり上手くないシンは、自身の頭部もダメージを受けることを避け、1980年代からはブレーンバスターの姿勢で相手を担ぎ上げ、気味に投げるスタイルが多く見られた。 相手の足を4の字に固める技。 正統派の時、グランドの攻防で時折使っていた。 レッグシザース 「首4の字固め」ともいう。 相手の首から顎にかけ、自身の足を4の字に固める技。 自身のスタミナを回復出来るメリットがあり、試合中盤によく使っていた。 攻撃 トレードマークの、を筆頭に客席のパイプ椅子攻撃が特筆される。 従来はほとんどのレスラーがパイプ椅子を畳んだ状態で広く平面的に殴っていたのに対し、シンは鋭利な部分で突きピンポイントにダメージを与える新たな方法をとった。 は柄の部分で相手を殴ることがほとんどで、剣先で刺したレスラーは大仁田厚他数えるほどしかいない。 また猪木にサーベルを奪われ、自身が剣先で刺されたこともある。 解説者が「何でも凶器にする」と言う通り、使用したアイテムは上記に加えビール瓶、三連パイプイス、テーブル、スパナ、木槌、ゴング、チャンピオンベルト、傘、ヘルメット、空き缶、脚立、ほうき、バケツ、チェーン、縄、ジュラルミンケース、リングロープ、タッチ用ロープ、フォーク、スプーン、靴、泥、石灰、鉄柱、アジャスター金具、場外フェンス、タオル、ポール、折り畳みの腰掛等と多岐に渡る。 反則技(凶器を使わない) 目潰し、噛み付きといったそれまで良く知られていた反則技に加え、攻撃が特筆される。 試合中、自身が追い込まれ防戦一方と見せかけて、レフェリーの死角をつき、油断した相手の股間に一撃を加え一瞬で攻防を逆転させることがしばしば有った。 1975年に猪木からギブアップを奪った、シンの隠れたフィニッシュ・ホールド。 エピソード [ ]• 上田馬之助とタッグチームを組んでいた頃、劇場でサモアンズ1号・2号に「踊り子に手を出すな」と注意したことでトラブルになり、劇場外の交差点の真ん中で2対2の乱闘を繰り広げた。 新日本プロレスに参戦する前に「ヒンズー・ハリケーン」のを使用した時もある。 シンは怖いレスラーの象徴であり、ファンに恐怖心を与えていたがゆえに警察にも何度か世話になっている。 初めに警察に通報されたのはテレビを見た視聴者からであった。 サーベルのことを「あんな危険なものを使わせていつも猪木さんや坂口さんが血まみれにされているから取り締まることはできないのか」という通報を受けて、新間寿と共に警視庁に呼ばれて本部に行ったことがある。 そして2度目はサーベルを持ってくるように言われ、新間は警官にサーベルを見せて「切っ先は尖っているわけではなく、人を刺すためのものではない。 タイガーがサーベルを使う時は、柄の部分で攻撃をする。 刺したり、切ったりが目的ではないことは、テレビを見ていればわかるでしょう」と説明した。 新宿伊勢丹事件における四谷警察署の対応は、もし猪木が告訴するのであれば10人がかりで逮捕しに行くとしていたが、新間は「で双葉山を逮捕に行った警察官が何人だったか知っていますか? 20人以上ですよ」と警察に返答した。 1970年代半ばの新日本プロレスは、シンを中心に回っていると言っても過言では無かった。 事実シンが登場する興行は飛ぶように売れ、新日本プロレスはシンが登場しない興行との抱き合わせ販売もした。 またがシンを介して様々な手法で新日本プロレスに揺さぶりをかけたかのように見せ、当時はマイナーなタイトルだったNWFのベルトやタイトル戦の付加価値を高めた。 新日本プロレス時代、『』の放送局であるには毎週のようにシンの狂乱ファイトに抗議する電話が寄せられ、テレビ朝日に10台ある電話全てがパンクしたという。 抗議電話の中には、「テレビ朝日の社長を出せ」といった内容もあったという。 テレビ朝日はやによる調査の他にもこの抗議電話も視聴率の指標とし、抗議電話の回数が多かった場合はすぐに高視聴率であると判断していたという(シンが参戦したシリーズにおける視聴率発表日は、1977年「アジアチャンピオンシリーズ」までは放送の翌週、「'78新春黄金シリーズ」以降は放送の翌日に発表)。 既述の新宿伊勢丹事件の際、タクシーのボンネットをへこまされたタクシー会社は新日本から弁償の申し出を受けると「弁償なんてとんでもない。 ウチはいまみんなで、これは面白いからって猪木さんにサインでもしてもらって、ボンネットをどこかに残していこうという話をしていたんです」と返し、2〜3日後に新日本の関係者はサインとグッズを持ってタクシー会社を訪問し、事態は丸く収まった。 ミスター高橋によると既述の「腕折事件」以後、骨折していることを装うため帰国までシンの右腕に包帯を巻き続けることを提案した。 何日も同じ部位を覆っていたため後に腕の皮膚が炎症を起こしたが、シンは帰国までこれを実行したという。 今では当たり前のように見られるリング外の場外フェンスは、1980年から新日本プロレスがシン対策(観客の安全を確保するため)として常設したのが最初である。 フェンス設置直後は、オーバー・ザ・フェンスなる新ルールが設けられた(相手選手をフェンスの外に出せば反則負け)。 これにより場外乱闘の行動半径が狭められる格好となったが、代わりにシンはフェンス目掛けてパイプ椅子を投げつける、通称「イス投げ」というムーブメントを確立した。 1979年8月26日、社主催「」で、ファン投票で1位に選ばれたメインカードが、シン・ブッチャー組対猪木・馬場組であった。 対戦前は「俺がブッチャーと組むくらいならむしろ猪木と組んで、ブッチャー・馬場組と対戦してやる」と、ブッチャーとのコンビを露骨に拒否したが、後年「あのオールスター戦のことはよく覚えている。 もしメインが、対馬場・猪木であれば、全日本プロレスの色が相当濃かっただろう。 それを押さえて俺(シン)を含めたカードが1位で、しかもメインをとったことは今でも誇りに思う」と語っている。 ちなみに馬場は引き分けで終わることを望みそれで予定はほぼ決まっていたが、試合直前に猪木から馬場へ電話があり、「俺(猪木)とシンで話がついたから」と語り、結果はシンのピンフォール負けであった。 新日本参戦時の試合中に、サラリーマンとおぼしき観客に傘で殴りかかられたことがある。 その際には徹底的な制裁を加え、続行中の試合実況において「先ほどのお客さんは病院に搬送されました」というリポートがあった。 ただし実際の負傷の程度、賠償の有無等は不明である。 ある会場で試合前に狂人ギミックで暴れていたところ、癇に障った山本小鉄らがシンをロープで縛り上げ、そのまま控え室に放り込まれたことがある。 入場テーマ曲は「サーベルタイガー」で、新日本プロレス時代から現在のハッスル迄、彼の主戦場で流されている。 ただし全日本プロレスでは、「」()が使用された。 全日本プロレスにおいてこの曲は、いわゆる「(の選曲による)凶悪レスラーの入場曲」という扱いであり、特に誰のテーマ曲とは決まっていなかったためである。 ちなみにシン対ザ・シーク、シン対ブッチャーが実現したときは、双方の入場時にこの曲が流された。 1979年、が家族と共にアメリカへ移住するため飛行機に乗っていた時、栗栖の赤ちゃんがなかなか泣き止まないことがあった。 たまたま同じ便に乗り合わせていたシンは、「私(シン)は長距離の移動は慣れているし、うちにも同じ年頃の赤ちゃんがいる。 」と言って栗栖の赤ちゃんを抱きかかえ、そのままベビーシッター役を引き受けた。 栗栖はシンに深く感謝し、その出来事をずっと忘れずにおり、実際、1990年にシンが新日本プロレスに戻って来たときには栗栖は恩返しとばかり「イス大王」としてシンに加担した。 新日本プロレス時代にはサーベルは新日本側で準備していた。 全日本プロレス熊谷大会に乱入した際、凶器はサーベルではなく、モップの柄を所持していた。 全日本参戦初日に自費でサーベルを購入している。 アブドーラ・ザ・ブッチャーの新日本プロレス移籍の第一報を伝えたのはテリー・ファンクであった。 トロントの自宅にいたシンにテリーが電話で移籍の旨を伝え、シンはすぐさま折り返し新日本プロレスに確認の電話をした。 インド人コミュニティーが存在する南アフリカでプロレスのブッカーをしていたこともある。 1987年、全日本プロレスにオファーを出し、ジャイアント馬場はそれに応えてをブッキングした。 ハル薗田とその妻は新婚旅行も兼ねて南アフリカに向かったが、その往路、に遭遇し不帰の客となった。 この時ばかりはシンも沈痛な面持ちで、マスコミのインタビューには背広姿で現れ、「ソノダと彼のワイフをこの様な事故で死なせてしまったことは大変申し訳ない」「彼(ソノダ)はとても良い友人でした」と、普段のギミックからは想像も付かない様な真摯な対応を見せた。 その姿はヒール姿しか知らぬ日本のプロレスファンに、薗田の事故死とはまた別の意味で大きな衝撃を与えることになった。 薗田夫妻の事故死はもちろんシンには何ら責任はないものであるが、その『償い』として犬猿の仲であるアブドーラ・ザ・ブッチャーと地上最凶悪コンビを結成し、全日本プロレスの興行に貢献したとされる。 とはいえ、この一件も大きなきっかけとなってシンのヒールキャラクターがあくまでギミックであることが明らかとなり、その後のシンのキャラクター性はヒールの内であっても大きく変化してゆくことになる。 それまで悪役として対戦相手(のみならず観客までも)を痛めつけることに終始していたシンが、ほどなくしてブッチャーと仲間割れよりコンビを解消した。 これを機に一転して如何にブッチャーより人気を得るかにシフト、観客からシンコールを受けることになる。 『』において、シンから譲り受けたサーベルに40万円の鑑定額がついたことがある。 巡業中、で飲んで上機嫌になったシンと外国人レスラー数名が、悪戯に近くに停めてあった車数台をひっくり返し、本当に警察沙汰になったことがある。 巡業中、すし屋へ行って「金魚を握ってくれ」と言ったことがある。 が苦手であるにもかかわらず、上田馬之助によって前の蛇料理店や、まむしラーメンで名高いミスター高橋経営のラーメン店に連行された。 リングネームは、日本語では一般的に「タイガー・ ジェット・シン」と表記されるが、東京スポーツだけは1990年代中期辺りから「タイガー・ ジット・シン」と表記している。 そうした旨の申し入れがシン本人からあったため、以降は「ジット」と表記するようになったという。 1994年7月8日付東京スポーツ1面トップで「シン7万円(1,000カナダドル)詐欺逮捕」と報じられる。 同紙、並びに『紙のプロレス』第11号で本人は全面否定。 地元では慈善事業家としての一面もありこちらでの評価も高く、2010年9月に自身の名前を冠したが、ミルトンに開校した。 来日外国人レスラーの中で、日本でタッグを組んだことがある日本人選手の数では最多級である。 短いながらもFMWで活躍していた時期があったため、女子プロレスラーとも縁がある。 [ ]とカレーの早食いマッチが実現した。 シンは辛いものが苦手であるが、対決の最中はそのような弱みを一切見せずこれに勝利した。 [ ]がを凶器にヒールとして活躍していた頃、自身を「女タイガージェットシンと呼んで下さい」とアピール。 獲得タイトル [ ]• :1回• :1回• :1回• アジアヘビー級王座(新日本プロレス版):1回• 001 1973年5月、新日本 ゴールデンファイトシリーズ• 002 1973年10月、新日本 闘魂シリーズ第2弾• 003 1974年5月、新日本 ゴールデンファイトシリーズ• 004 1975年2月、新日本 ビッグファイトシリーズ• 005 1975年5月、新日本 ゴールデンファイトシリーズ• 006 1976年1月、新日本 新春黄金シリーズ• 007 1976年7月、新日本 アジアリーグ戦• 008 1977年1月、新日本 新春黄金シリーズ• 009 1977年4月、新日本 第4回ワールドリーグ戦• 010 1977年6月、新日本 アジアチャンピオンシリーズ• 011 1978年1月、新日本 新春黄金シリーズ• 012 1978年8月、新日本 ゴールデンファイトシリーズ• 013 1979年2月、新日本 ビッグファイトシリーズ• 014 1979年7月、新日本 サマーファイトシリーズ• 015 1979年8月、新日本 ブラディファイトシリーズ(8. 26夢のオールスター戦含)• 016 1979年10月、新日本 闘魂シリーズ• 017 1980年6月、新日本 サマーファイトシリーズ• 018 1980年10月、新日本 闘魂シリーズ• 019 1980年11月、新日本 第1回MSGタッグリーグ戦• 020 1981年1月、新日本 新春黄金シリーズ• 021 1981年3月、新日本 WWFビッグファイトシリーズ• 022 1981年4月、新日本 WWFビッグファイトシリーズ第2弾• 023 1981年5月、新日本 第4回MSGシリーズ• 024 1981年7月、全日本 サマーアクションシリーズ• 025 1981年10月、全日本 ジャイアントシリーズ• 026 1981年11月、全日本 世界最強タッグリーグ戦• 027 1982年5月、全日本 エキサイトシリーズ• 028 1982年7月、全日本 サマーアクションシリーズ• 029 1983年1月、全日本 新春ジャイアントシリーズ• 030 1983年2月、全日本 エキサイトシリーズ• 031 1983年7月、全日本 グランド・チャンピオン・カーニバル• 032 1983年11月、全日本 83世界最強タッグリーグ戦• 033 1984年5月、全日本 グランド・チャンピオン・カーニバル2• 034 1984年11月、全日本 84世界最強タッグリーグ戦• 035 1985年1月、全日本 85激突! オールスターウォーズ• 036 1985年5月、全日本 85激震! サンダーウォーズ• 037 1985年8月、全日本 85決戦! ダイナマイトウォーズ• 038 1986年2月、全日本 エキサイティングウォーズ86• 039 1986年5月、全日本 スーパーパワーシリーズ• 040 1986年8月、全日本 86サマーアクションシリーズ• 041 1986年10月、全日本 86ジャイアントシリーズ• 042 1987年1月、全日本 87新春ジャイアントシリーズ• 043 1987年5月、全日本 87スーパーパワーシリーズ• 044 1987年10月、全日本 87ジャイアントシリーズ• 045 1988年3月、全日本 88チャンピオン・カーニバル• 046 1988年5月、全日本 88スーパーパワーシリーズ• 047 1988年11月、全日本 88世界最強タッグリーグ戦• 048 1989年9月、全日本 ジャイアントシリーズ• 049 1989年11月、全日本 89世界最強タッグリーグ戦• 050 1990年5月、全日本 スーパーパワーシリーズ• 051 1990年9月、新日本 9. 052 1990年10月、新日本 10. 053 1990年12月、新日本 12. 26キングオブキングスIN浜松アリーナ• 054 1991年2月、新日本 スーパーフェブラリィ91• 055 1991年3月、新日本 3. 21 91スターケードIN闘強導夢• 056 1991年7月、新日本 サマークラッシュ91• 057 1991年10月、新日本 SGタッグリーグ戦• 058 1991年12月、新日本 12. 18巌流島• 059 1992年3月、新日本 3. 1超戦士IN横浜アリーナ• 060 1992年6月、FMW 果てしなき闘い• 061 1992年7月、FMW 「原点への旅立ち」• 062 1992年8月、FMW 血と汗の闘い• 063 1992年9月、FMW 9. 19FMW3周年記念興行「邪道」• 064 1992年11月、FMW 世界最強ストリートファイトタッグリーグ〜生きざま〜• 065 1993年3月、FMW 歴戦の国・北に!! 066 1993年5月、NOW BATTLE HUNTER93• 067 1993年6月、NOW THE GREAT BATTLE93• 068 1993年7月、NOW BATTLE FEVER93• 069 1993年8月、NOW RENOVATION POWER93• 070 1994年2月、NOW NOW-SPIRITS• 071 1994年4月、NOW ネットワーク・オブ関東94• 072 1994年11月、平成維新軍 11・13平成維震新軍オープニング・マッチ• 073 1994年12月、平成維新軍 平成維震軍オープニング・マッチII• 074 1995年10月、IWA UNDER FIRE〜戦士たちの宴〜• 075 1995年11月、IWA 2ND YEAR FINAL BATTLE〜NWA世界タッグ・リーグ戦〜• 076 1996年1月、IWA NEW YEAR96〜BOUND TO BREAK〜• 077 1996年4月、IWA GET THE GLORY TOUR96〜栄光をつかめ〜• 078 1996年7月、IWA AGGRESIVE WARRIORS TOUR96〜超戦士西上〜• 079 1996年11月、冴夢来 冴夢来プロジェクト11月シリーズ• 080 1997年4月、冴夢来 闘史回天第2章• 081 1997年7月、冴夢来 冴夢来97夏の陣• 082 1999年9月、IWA GREATFUL TOUR99• 083 2001年11月、IWA HAPPENING HERE 2001• 084 2002年3月、IWA JAPAN SPRNIG BRREZE TOUR 2002• 085 2002年7月、IWA JAPAN CAUTION SHINY SUMMER 2002• 086 2002年9月、IWA JAPAN 8TH ANNIVERSARY SPECIAL!! 087? 2004年10月、ハッスル• 088? 2007年3月、ハッスル• 089? 2007年4月、ハッスル• 090? 2007年5月、ハッスル• 091? 2007年6月、ハッスル(元野球選手と対戦)• 095? 2008年8月、ハッスル(と対戦) タイトル戦歴・名勝負等 [ ] 認定世界ヘビー級選手権• 1980年4月13日 ・エル・トレオ・デ・クアトロ・カミノス (無制限三本勝負) アントニオ猪木 対 挑戦者タイガー・ジェット・シン 1 シン(首四の字固め 12分33秒)猪木 2 猪木(卍固め 5分43秒)シン 3 猪木(反則勝ち 4分00秒)シン• 1980年7月17日 東京・ (61分一本勝負) アントニオ猪木 対 挑戦者タイガー・ジェット・シン 猪木(体固め 12分2秒)シン• アジア・タッグ選手権• 1976年8月4日 仙台・ (60分3本勝負)(新タイトル王座決定戦) 坂口征二 ストロング小林組 対 タイガー・ジェット・シン ガマ・シン組 1 坂口(逆エビ固め 12分58秒)ガマ 2 シン(体固め 9分21秒)小林 3 小林(体固め 2分06秒)ガマ• アジア・ヘビー級選手権• 認定北米タッグ選手権• 1975年3月18日 名古屋・ (60分三本勝負) アントニオ猪木 坂口征二組 対 挑戦者タイガー・ジェット・シン マイティ・ズール組 1 坂口(両者リングアウト 18分20秒)シン 2 猪木(背骨折 2分16秒)ズール• 1976年2月5日 札幌中島スポーツセンター (60分三本勝負) 坂口征二 ストロング小林組 対 挑戦者タイガー・ジェット・シン ブルータス・ムルンバ組 1 シン(体固め 7分19秒)小林 2 小林(体固め 5分18秒)ムルンバ 3 坂口(リングアウト 4分03秒)シン• シン組が王座初防衛。 1978年2月2日 札幌中島スポーツセンター (60分三本勝負) 坂口征二 ストロング小林組 対 挑戦者タイガー・ジェット・シン 上田馬之助組 1 坂口(エビ固め 12分00秒)上田 2 上田(片エビ固め 6分59秒)坂口 3 坂口組(反則勝ち 3分27秒)シン組• 1978年9月13日 熊本市体育館 (60分三本勝負) 坂口征二 ストロング小林組 対 挑戦者タイガー・ジェット・シン ジンバ・カーン組 1 小林(首固め 12分43秒)カーン 2 シン(体固め 1分36秒)小林 3 坂口(体固め 3分03秒)カーン• 1979年9月28日 名古屋・愛知県体育館 (60分三本勝負) 坂口征二 長州力組 対 挑戦者タイガー・ジェット・シン 組 1 長州(体固め 8分01秒)斉藤 2 斉藤(体固め 2分15秒)長州 3 坂口組(反則勝ち 2分12秒)シン組• 1979年11月16日 沖縄・奥武山体育館 (60分三本勝負) 坂口征二 長州力組 対 挑戦者タイガー・ジェット・シン マサ斎藤組 1 坂口組(反則勝ち 9分01秒)シン組 2 斉藤(体固め 0分55秒)長州 3 長州(体固め 0分37秒)斉藤• 1980年10月30日 熊本市体育館 (60分三本勝負) 坂口征二 長州力組 対 挑戦者タイガー・ジェット・シン 上田馬之助組 1 シン(コブラクロー 9分47秒)長州 2 坂口組(反則勝ち 3分19秒)シン組 3 長州(体固め 4分15秒)上田• 認定北米ヘビー級選手権• 認定ヘビー級選手権 (1975年8月29日付でNWF認定世界ヘビー級選手権から改称)• 1974年6月20日 東京・蔵前国技館 (60分三本勝負) アントニオ猪木 対 挑戦者タイガー・ジェット・シン 1 猪木(卍固め 20分51秒)シン 2 猪木(反則勝ち 1分21秒)シン• 王位が空白となった。 1976年8月5日 東京・蔵前国技館 (時間無制限一本勝負) アントニオ猪木 対 挑戦者タイガー・ジェット・シン (両者リングアウト 9分43秒)• 1977年2月10日 東京・ (時間無制限一本勝負) アントニオ猪木 対 挑戦者タイガー・ジェット・シン 猪木(リングアウト 22分55秒)シン• 1978年2月3日 札幌・中島スポーツセンター (時間無制限一本勝負) アントニオ猪木 対 挑戦者タイガー・ジェット・シン 猪木(リングアウト 21分13秒)シン• 1978年9月21日 東京・・ゴールドホール (61分一本勝負) アントニオ猪木 対 挑戦者タイガー・ジェット・シン 猪木(体固め 25分37秒)シン• 1979年4月5日 (時間無制限一本勝負・) アントニオ猪木 対 挑戦者タイガー・ジェット・シン 猪木(体固め 20分21秒)シン• 1979年8月10日 アメリカ・オリンピック・オーデトリアム (時間無制限一本勝負) アントニオ猪木 対 挑戦者タイガー・ジェット・シン (両者リングアウト 7分03秒)• 1979年10月4日 東京・蔵前国技館 (時間無制限一本勝負・インディアンデスマッチ) アントニオ猪木 対 挑戦者タイガー・ジェット・シン (無効試合 20分22秒) 認定選手権• 脚注 [ ] []• ・2009年3月29日付 「のプロレススーパースター実伝」第47回(当時の為替レートで約2500万円ほど)• 3月ににて• 『週刊プロレスSPECIAL 日本プロレス事件史vol. 2』P60(2014年、)• 8』P13 - P14(2015年、)• グレーテスト18クラブが設立された直後は猪木が同タイトルの一切の権限を持っていたが、すでにセミリタイヤの状態であった猪木はこれを長州力に譲った。 シンは自分より格下としか認めていない長州の下のメンバーであることが癇に障り、長州やその周辺に対する凶行を重ねたため、後に除名されることとなった。 正月の興行において、メインはシン対猪木であることが早々に決まったが、これに対してが「一線を退いた者同士ではなく、俺 馳 と戦ってほしい」と猪木にアピールする。 猪木は自分の一存では決められないため、馳にシンと直接交渉することと伝えた。 馳はカナダのシンの自宅を訪問したが、シンに暴行を受け池に落とされた。 話し合いでは結論が出ないため新日側は、巌流島で戦って勝った方を猪木の対戦相手とすることとした。 同決戦においては先にシンが馳を大流血に追い込んだが、馳の凶器で滅多打ちにされたシンが自身最大級の流血に見舞われ、リング内でKO負けした。 新間寿の我、未だ戦場に在り! <獅子の巻>』(ダイアプレス、2016年)p84-85• 猪木自身は「腕を折った」と明言しているが、実際にはヒジもしくは肩の亜脱臼だという。 自身の著書にて。 ミスター高橋『知らなきゃよかった プロレス界の残念な伝説』宝島社、2018年。 16-17• ミスター高橋『知らなきゃよかった プロレス界の残念な伝説』宝島社、2018年。 30-31• 山本小鉄は近年のコラムで、この技の合法性に関し「あれは紛れもなく反則。 だから自分がレフェリーに転身後は、あの技に対し厳しく反則をとった」などと語っている。 『週刊プロレスSPECIAL 日本プロレス事件史vol. 2』P29 - P30(2014年、))• 東京スポーツ2010年3月11日付7面記事• 上田馬之助、マサ斎藤、ラッシャー木村、鶴見五郎、阿修羅原、ザ・グレート・カブキ、キラーカーン、アントニオ猪木、栗栖正伸、剛竜馬、安生洋二、ゴージャス松野等• Wrestling-Titles. com. 2010年4月5日閲覧。 Wrestling-Titles. com. 2013年8月7日閲覧。 Wrestling-Titles. com. 2013年8月7日閲覧。 外部リンク [ ]• - ハッスル• (英語)• (英語)• (英語)• (英語)• (英語).

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箱のサイズ的にはV-1が近いのかな?1列目が姿勢矯正席(=背もたれ無し)だったのでそこはバッシュとおんなじ。 ちょうど座った席の真後ろが招待席で、恐らく前のオーナーさんらしき方が「こういう風になったんだねえ」と感慨深そうに連れ合いの方とお話されてたのが印象的でした。 たのしいことばかりあふれる素敵な会場になっていくといいいし、なっていくのだろうなと思った開演待ちのひとときでありました。 公演オープニングの前に特別企画として「初爆笑・初スベリを決めよう」開催。 MCは高木さん ストレッチーズ 、挑戦者はかるてぃんさん ・うどんさん ・中田さん さすらいラビー の3名。 私は高木さんの声とその通り方とMC回しが好きなのでイェーイだった(余談)。 対決だったんだけどなかなか爆笑が出てこず苦戦する3人。 結果初スベリはうどんさんで、中田さんが「初スベリとったから(ステージ上部に)額縁ができるんじゃない?」と言い出しておもしろかった…AKB劇場のように並べられるスベッた芸人たちの額縁(地獄絵図)自分のメモに初爆笑取ったの書いてなくて誰だったのかが…わからない…たぶんどなたかのレポに書いてあるはずです(人任せ)。 企画終了後ついに公演オープニングへ。 オープニングMCはさすらいラビー、、の3組。 この日の上で「ブリーカー一番乗りはさすらいラビー・宇野さん」とのツイートがされていたのですが、ほんとの一番乗りはうどんさんだったとのこと。 入り時間をミスったせいでまだスタッフすらいない状態で、うどんさん曰く「のタイさんみたいな風貌の管理人さんしかいなかった」。 強面である。 うどんさんが自分が一番乗りだったっていうことを話しているときに「一番丸!」って発したら中田さんがすかさず「え、船なの?」と返してたのがおもしろかった。 うどん船長による一番丸が出航…。 新しい劇場ということで終始会場全体の雰囲気がそわそわしていた。 わりと天井が低めだったのでなぜか誰がジャンプして天井に手がつくのか合戦が開催。 ここは男子高の教室か?宇野さんが「使ったことない筋肉が死んだ」と蹲りながら言い出したので笑った…(宇野さんはオープニング出演者陣で一番背が低いのでかなり大きくジャンプしていた)あと「壁が近いからかっこつけられる」ということでキメポーズを披露されていたりした。 ここは男子高でした。 ばたばたジャンプしてはしゃいだ空気の中ネタへ。 以下香盤。 (ネタタイトルはほとんど勝手につけてます) ・まんじゅう大帝国「幽霊」漫才 ・「写真アプリ」漫才 ・アントワネット「お菓子」漫才 ・Gパンパンダ「ナンパ」コント ・「歌」漫才 ・さすらいラビー「女心」漫才 ・「クワガタをとる方法」漫才 ・ストレッチーズ「ボーリング」漫才 ・「サプライズ」コント トップバッターのまんじゅう大帝国。 会場を見渡して「いいですね新しい会場」「新築の匂いがしますね」といつもながらの落ち着いた雰囲気を纏ってトップバッターを務めていた姿がとても素敵だった。 田中さんが「ちょっとね、まだ(会場に)慣れるのに時間がかかるから」と言って本筋に入るのを止めてたの良かったな…。 まんじゅう大帝国のこの「立ち話でもしますか」みたいな姿勢の話し方がとても好きです。 まんじゅう大帝国の次にが出てきたのですが、舞台上にはかるてぃんさんひとり。 いつまでも経ってもヤスさんが袖から出てこなくて、袖の幕が開いたと思ったらの児島さんが見切れるという。 ざわついた空気の中児島さんの指示でかるてぃんさん一度捌ける。 とりあえずライブ進めてくことになり次のが出てきて大島さんが「どういうことなの??」と混乱してたり、の次の番であるアントワネットの王子が「ブリーカーの緊張でヤス飛んだのかと思った」と言い出してめちゃくちゃ笑った。 最終的にが出てきたのはGパンパンダの後(5番目)。 どうやら最初の出番順から繰り上がっていたのが香盤表に反映されていなかったらしく、未反映の香盤表見たヤスさんはこの出番ならいけるだろってことでルミネにパン買いに行ってたそうです。 そりゃ見つからない。 運営側的にはめちゃくちゃ焦るし気が気ではないだろうけど、見ている側としてはライブ感あって面白かったなあ。 状況説明しているヤスさんがすごい落ち着いてて肝がすごい…と思わず感心した。 9組の中で一番面白かったのはGパンパンダでした。 初めて見たコントで一平さんが女装をされていたのだけど、これがまあびっくりするぐらいキュートだった…。 可愛いというかキュート。 『』に出てた時ぐらいのパンサー向井氏の女 装 子と並んで欲しさがあった。 そんなキュートな子が中身理論的なクセの強さを全力発揮してナンパ役の星野さんと会話(というか主張のぶつけ合い)する…っていうコントだったのですが、絵的な面白さも言葉的な面白さもすごくてめちゃくちゃ好きだなと思いました。 また見たいな~ 途中新しいステージ上の間合いが分からず片足袖に落ちた星野さんがおもしろかわいかった…(落ちた瞬間へへへって照れ笑いしてたのめちゃくちゃかわいかった) エンディングMCは。 9組全員ステージに立つとすごいぎゅうぎゅうで箱の狭さを実感する…。 上手袖に公演2部に出演するかまぼこ体育館さん がいたらしく、袖付近にいた芸人がかまぼこさんに幕の隙間からカンチョーされるという地味なドッキリ(?)が生じていたそうです。 端っこでおしりおさえてる芸人多かったのそれが理由だった。 (ケツ痛いのかなとか思ってた)ちなみに井口さん も既に裏にいたらしい。 この日のエンディング主役は一平さんでした。 圧倒的にIPPEI・・・先日の(「もっと売れたい芸人」)でノブさん 千鳥 に噛みついた(比喩ではなく実行動の意味で)結果めちゃくちゃ炎上したらしい。 テレビすごい。 そして「(ピンで出演した)ロンハーもやらかしたのでもしかしたらまた燃えるかもしれない…」と空虚な目で客席を見ながら一平さん笑っていた………(こわい…………)そんな一平さんを見かねて周囲の芸人が「ブリーカーのお客さん全員が『Gパンパンダおもしろい』ってつぶやいたらいいんじゃない?」とフォローするものの、相方の星野さんがすかさず「この数(ブリーカーの客数)じゃ絶対足りないです」と一蹴。 我々は数に負けた。 (結果ロンハーはそんな燃えていなかったのでは…?という印象。 どうだったんだろう) 以下はエンディング時の写真一部です~近いと全体撮るのめちゃくちゃむずいな この日のエンディング主役だったGパンパンダ(というか一平さん) 手がめちゃくちゃ大きいさすラビなかださん 袖にいたかまぼこさんから渡されたバナナ(どういうお笑い) なんかドラマチックなうどんさんとなかださん Gパンパンダの炎上具合を見て、テレビの力って良くも悪くもやっぱりまだまだ強いんだなあとしみじみ実感。 ほかの芸人さんも然り。 一番良いのは芸人自身が望んでいる形で世間に誰かに見つけてもらうことだと思うけれど、足掛かりに手の指先すら引っ掛けられない人も多い中では、どんな形でも表に出られるのは大事なことじゃないかな、と。 思っている。 これは勝手なミーハーの持論。 (まあな出方だったらべつにいいです表に出なくてもっていうスタンスもそれはそれで良いと思うけれど) 点けられた炎が足場を失くすためのものではなく、進む道を照らすための松明の一部となっていきますようにと願うエンディングでありました。 Gパンパンダおもしろいから大丈夫だと思う。 絶対だいじょうぶだよ。 私のお守りにしているさくらちゃん(『』)のことばを絶え間なく贈りたい。

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概要 [ ] タイガー・ジェット・シンのニックネームは「 インドの猛虎(狂虎)」「 狂える虎」。 息子のもプロレスラーであり、のリングでも活動した。 のを振りかざす姿で一世を風靡した。 しかし、ここぞという場面では正統派を見せ、らトップクラスのレスラーにも勝利している。 言動には独自の哲学を徹底して貫いており、多くの関係者から一目置かれる存在となっている。 日本国外や地元ではとして活躍を続ける一方、プロレス以外の様々な事業を経営している。 プロレス業界のみならず、財界、政界とも繋がりがあり、北米インド人社会では最も著名な人物の一人である。 来歴 [ ] 来日前(〜1973年) にでデビューし、その後に渡ったという説があるが定かではない。 のアメリカ修行時代の師匠で知られたに正統派レスリングを徹底的に叩き込まれ、1965年にトロントでデビュー(ここからのプロフィールははっきりしている)。 翌には師匠のアトキンスとのタッグで同地区のインターナショナルタッグ王座を奪取する。 日本では全く無名の存在であったが、6月にを破ってトロント地区のUSヘビー級王座を獲得すると、当時のトロント地区で完全にメインイベンターの地位を確立。 同年には世界王者に1度、WWWF(現)世界王者に2度挑戦している。 ベビーフェイスに転向するとさらに人気は増し、2月に行われたとのでは18000人を超える観衆を集め、当時の年収は約8万ドルにも達していたという。 初来日直前はを主戦場とし、らとツアーを同行する。 この出会いがきっかけで、後にシンは日本で大成功を収める(後述する)。 新日本プロレス参戦期(1973 - 1981年) 5月に初来日(後述する)し、アントニオ猪木らと因縁の抗争劇を繰り広げ一躍外国人レスラーのトップとなる。 よりに幾度も挑戦し、一時は王者猪木を破り新チャンピオンとなる。 またNWF抗争と並行し、新設アジアヘビー級選手権および同タッグ選手権などのローカルタイトルも次々と獲得する。 特に2月より結成されたとの極悪コンビの暴れっぷりは凄まじく、また両者は同じ悪役同士ウマが合ったことより以後公私に渡り生涯の友となる。 にはファン投票一位で 後述する に選ばれ、メインイベントに登場する。 後に、といった外国人レスラーが頭角を現す一方でシンの人気が徐々に下降するのに伴い、猪木との抗争はNWFからへとシフト。 には犬猿の仲とされるの参戦が決定し、これを機に同年4月第4回の参加を最後に新日本プロレスを去る。 シンに言わせると、「なぜ今さらブッチャーが必要なのか?俺は新日本プロレスのオフィスが信用できなくなったから去った」とのことである。 全日本プロレス参戦期(1981 - 1990年) アブドーラ・ザ・ブッチャーを新日本プロレスへ引き抜かれた格好となったと『』の放映局であったは、直ちに報復工作としてシンとスタン・ハンセンの引き抜き工作を開始し、ジャイアント馬場と『全日本プロレス中継』のプロデューサーであった原章が、シンを引く抜くべくトロントへ向かった(同時に馬場と原は、スタン・ハンセンの引き抜き工作のため、にも向かっている)。 7月3日の全日本プロレス「'81サマー・アクション・シリーズ」にマネージャーのと共に乱入し、翌7月4日から全日本に正式参戦。 1980年代前半はザ・シークやら外国人選手との対戦で、シンの持ち味が発揮されることがあったが、ほぼ同時期に新日本プロレスから移籍したスタン・ハンセンらの影に隠れ、全日本プロレスでは精彩を欠く存在であった。 の国内デビュー戦の相手に抜擢されたり、全日本プロレスにUターンしたアブドーラ・ザ・ブッチャーとの凶悪タッグを結成するものの、人気低下に歯止めがかからず、一時的な話題を提供するだけに留まった。 特に1980年代後半は以前と比べると流血試合が大幅に減った上に体重が増加し、シンの売りであるスピーディーな暴れっぷりは徐々に衰えていった。 新日本プロレス復帰(1990 - 1992年) 9月に行われたアントニオ猪木デビュー30周年記念イベントにおいて、永遠のライバル猪木と一夜限りの特別タッグを組み、興行に花を添えた。 これを機に新日本プロレスへ復帰を果たすも体力的な衰えは隠せず、台頭してきた闘魂三銃士との試合もかみ合わずじまいで、メインイベンターからは遠退いていった。 また、アントニオ猪木デビュー30周年に合わせ、なる親睦団体兼新タイトルが設けられ、シンは開設当初からメンバーだったものの後に除名されたり 猪木とのシングルマッチの権利を奪われたりと不遇が重なった。 ただし全日本プロレス時代に比べて、シンの暴れっぷりはむしろ復活していた。 シンより1〜2世代若い、等のレスラーを次々と血祭りにあげたり、場外ではが所有する自動車をバットでメッタ打ちにしその因縁から馳と を行うなど、自らの健在ぶりをアピールした。 インディーズ時代(1992年 - ) にに参戦。 マッチを始め、過激なデスマッチ路線を邁進していたこの団体においてシンは、水を得た魚の如く蘇り大活躍をした。 FMWのリングでは、大仁田と、でのノーピープル電流爆破デスマッチ等多数の名勝負を繰り広げ、息子のアリ・シン(当時はタイガー・ジェット・シン・ジュニアを名乗った)と組んでタッグリーグ戦に参加した。 また、シンをFMWに呼び寄せたともされたザ・シークともコンビを結成したが、後に仲間割れした。 その後に参戦し、上田馬之助とのタッグを復活させたが後に仲間割れし、一転して抗争状態に。 さらに参戦したではベビーフェイスになってと抗争するなど、インディー団体を中心に転戦し続けた。 近年の来日ではでと戦い、敗れはしたものの小川を流血させた。 その後、、、などと戦い、彼らを血祭りにあげた。 還暦を遥かに過ぎたとは思えぬスピードとスタミナ、自分の子供のような世代のレスラー達を狂乱ファイトで痛め続け、狂虎健在ぶりをアピールしている。 2009年7月26日にはハッスル・両国国技館大会においてアブドーラ・ザ・ブッチャーと1989年以来20年ぶりのタッグを結成するも、お約束の同士討ちにより、シンがフォール負け。 同大会の因縁勃発を受け、同月30日には19年ぶりにブッチャーとの一騎討ちを展開。 試合のほぼすべてが場外戦の末、無効試合となった。 8月27日、復興イベント『』に登場。 恒例の猪木劇場において、ブッチャーとともにアントニオ猪木を襲撃した。 2011年12月27日、『』では、相棒だった上田馬之助の遺影を持ってリングに上がり、故人を称えた。 和製タイガー・ジェット・シン〜作られたヒール [ ]• 、アントニオ猪木を代表にが創立されるが、しばらくはと(後に全日本プロレス)、ととの協定により、当時人気のあった外国人選手のほとんどは、新日本プロレスへの参戦が事実上不可能であった。 また、創立間もない新日本プロレスは高額のギャラを外国人レスラーに払える状況では無く、無名の選手を育て上げるという手法に依存せざるを得なかった。 タイガー・ジェット・シンを新日本プロレスに売り込んだのは、当時インドと独自のネットワークを築いていた吉田なる貿易商とされる。 香港でシンの試合を観戦し、新日本側に紹介した。 猪木が無名外国人選手のプロフィールに目を通している時に、口にナイフを咥えているシンの写真に注目した。 この時猪木は、「ナイフじゃなくどうせならでも咥えさせてみろ」と語ったという。 このような状況で、シンは初来日した。 ただし、本来は同年7月からのシリーズに参戦する予定だったのが、新日本プロレス渉外担当者の手続きに間違いがあり、シンは二か月早く来日してしまった。 そこで同年5月4日、会場のの客席にシンを招いた。 新日本プロレスにしてみれば、「手違いとはいえ、せっかく来日したのだから日本のプロレスを生で見てもらおう」という、シンに対する配慮だった。 ところがこの日の対スティーブ・リッカードの試合中、シンは突如乱入し、山本小鉄をメッタ打ちにした。 この時はは巻いていたが、サーベルは持っていなかった。 この様子を見た猪木は目玉レスラーになると考え、急遽渉外担当に命じシンを一旦へ向かわせ、業務用を受けた後に日本へ戻るよう指示した。 その間新日本プロレスは前述の猪木案を実現すべく、日本国内でサーベルを手配し、日本に戻ってきたシンに与えた。 ヒールとして日本で活躍することを望んでいたシンは、大いに喜んだという。 既述の通りシンとスティーブ・リッカードは来日前から面識があったため、当初のシンはリッカードのセコンド役という位置づけだったが、その尋常ではない暴れっぷりに人気が集中し、シリーズ終盤にはついに対猪木との初シングル戦が実現した。 このような経緯を経て、ターバンを巻きサーベルを振りかざすという、タイガー・ジェット・シン独自のスタイルが確立されたが、当時の新日本プロレスは、「タイガー・ジェット・シンは勝手に日本に来た。 決して新日本プロレスが招いたわけでは無い」との旨のでシンを売り込んだ。 このギミックについて当時のはシンを「 謎の怪人」「 狂人(後述する)」等と報道し、一応の成功を収めた。 後に「 インドの猛虎」「 狂虎」といった表現に落ち着く。 「襲撃事件」と「腕折り事件」 [ ]• 11月5日、タイガー・ジェット・シンは2度目の来日中にら外国人レスラー数名と組み、(当時の猪木夫人)と買い物中だったアントニオ猪木を前で襲撃し、猪木はガードレールやタクシーのボンネットに頭からぶつけられ負傷・流血した。 平日の夕刻、大勢の帰宅客で賑わっていた最中での出来事であり、一般の目撃者から警察にも通報された。 新日本プロレスに対するの対応は、「本当の喧嘩であれば猪木はシンを傷害罪で告発し、被害届を出せ。 やらせであれば、違反(道路無許可使用)で新日本プロレスを処分する」という厳しいものだった。 これに対し新日本プロレスは、「やらせではない。 シンは契約選手なので傷害罪で告発することは出来ないが、騒ぎを起こしたことは申し訳なく、お詫びなら幾らでもする」と始末書を提出し、事件は新日本プロレスに対する厳重注意で収まった。 この事件はプロレスファンから広く一般まで話題となり 、シンは本当に狂っているのではないか(後述)という印象を強く与えた。 以後猪木はリング上で制裁を加えると公言し、猪木対シンの試合は「因縁の闘い」として世間の注目を集めることとなった。 事件直後の1973年11月16日、中島スポーツセンターで超満員の中猪木と二度目の一騎討ちが実現。 両者大流血の喧嘩ファイトとなった。 それまでの猪木のファイトは正統派スタイルを売りにしていたが、対シン戦で猪木が見せた喧嘩ファイトは猪木の新たな魅力を引き出し、ファンの増加をもたらした。 またシンという絶対悪が存在する限り、日本人受けが良いとされる勧善懲悪の世界を築くことができた。 これら一連のシン効果により、新日本プロレスはメジャー団体への階段を昇る。 6月、王者猪木(当時)とのタイトルマッチ2連戦は、両者の遺恨がピークに達した試合と後に語り継がれる。 同年6月20日・においてシンは、猪木の顔面に火炎攻撃を仕掛けサーベルで滅多打ちにした。 猪木はタイトルこそ反則勝ち防衛したものの、左目と頭部を負傷した。 その傷が完治しないまま6日後の6月26日での60分3本勝負は、1本目がシンの徹底した反則攻撃により猪木は大流血。 2本目に猪木の怒りが頂点に達し、シンの右腕に狙いを定めると鉄柱攻撃やアームブリーカーなどで集中的に攻め続けた。 最後はシンの右腕を骨折させ、ドクターストップの末猪木がタイトルを連続防衛し、ここに両者の遺恨に一旦終止符が打たれた。 双方の攻防は、いずれも一歩間違えればレスラー生命に関わる激しいものであったが、両者には互いが共栄していくためには、超えてはならない一線を超えることも是とする暗黙の了解があったとされる。 当時の猪木は日本プロレスを追放されたも同然の身で、ライバル団体の全日本プロレスに追いつき追い越したいという野望があり、シンも新天地日本でトップヒールとして開花したいという、両者の強烈なハングリー精神が共感した上で、前述の遺恨試合2連戦が展開された。 特に第二戦の大阪府立体育館においては、猪木対シンの試合開始1、2時間前から会場は超満員(8,900人)の観客で溢れ、入場出来なかった多くの熱心なファンが係員と押し問答となったり、ダフ屋では1,000円のチケットに5,000円の値がついたりと場外でも話題は尽きなかった。 また、試合を生で観戦した者は「会場全体が、これから殺し合いでも始まるのではないかという異様な熱気と興奮に包まれていた」と当時の様子を回顧する。 後年新宿伊勢丹襲撃について、各関係者は以下のように証言する。 -猪木夫妻が了解済みの作りであった。 -「やらせと本物のケンカ、どっちも正解だ。 当時の新日本プロレスに密告者がいて、プライベートの猪木を襲ってみてはとけしかけられたのは事実だ。 ただし我々はある程度良識の範囲内での襲撃を想定していたのだが、途中からシンが本気になってしまった。 『オレ(シン)は世界一のヒールになるんだ』とあの日のシンは間違いなく理性を失っていた。 」とシンの予定外の暴挙が騒動に発展したことを明かしている。 アントニオ猪木-「会社の誰かが俺のスケジュールをシンに教えてけしかけていた可能性はあると思う。 あの頃、新日本プロレスの社員はみんな必死にいろんなことを考えていたから、俺に内緒でそういうことを仕掛けるくらいのことはやりかねなかった。 」 人物 [ ] ウィキクォートにがあります。 によると、初来日時におけるでの自身の週給は3000ドルであり、最終額は8000ドル。 は著書の中で、シンが狂人どころか非常に聡明で紳士的な人間であることを強調しており、ヒールとしてのキャラクターは完全に演技であることを明かしている(先述の通りインド社会では名士として知られており、インドで募金活動をするなど、善意や篤志もある)。 「手が付けられないほど、試合中に本当に狂ってしまったのは猪木」とも証言されている。 が巡業先のスポンサーの社長宅で、バーベキューに呼ばれたことがあった。 社長は「どうせなら外国人レスラーも連れてきてよ」と言い、当時外国人選手係でもあった山本小鉄は、シンと一緒に赴いた。 シンはターバンにスーツという、インド式の正装であった。 そのうちバーベキューの火力が強くなり、段々汗ばんできたきたシンは、「社長、上着を脱いでもよろしいでしょうか」と一言断りを入れたという。 シンの紳士ぶりを象徴する一例である。 の地区はインド系住民の多い地であり(トロントの項にあるの欄を参照)、この地でのシンは、デビュー直後の数年間を除いて一貫してである。 またアメリカのなどでザ・シークと対戦する際もベビーフェイスとして活動している。 ヒールとしてのモデルはザ・シークであり、狂人キャラを貫く点、決してプライベートを明かさない点にそれが見える。 リングの内外を問わず、大変な倹約家として知られる。 トロントでの事業が成功した大きな要因であり、それを物語る一例としてシンと親しいある日本人プロレス記者は、「(シンがメインを取っていた全盛期の頃)週に100万円稼ぐシンが(来日中に)使う金は一日5,000円以下だった」と語る。 1977年1月、が新日本に初参戦した当時、外国人レスラーのエース格としてシンが君臨していた。 この頃のハンセンは「の首を折った男」との売り込みで多少の知名度はあったものの、先に参戦していた全日本においては「馬力だけの不器用なレスラー」との烙印を押されていた二流レスラーの扱いであった。 そんなハンセンがシンとツアーを同行するうちに多大な影響を受けることになる。 普段は物静かで寡黙なシンがリングに向かう時は急変して大暴れしながら入場、さらに欧米では考えられない観客を追い回し時に暴行を加えるシーンなどがそれで、すぐにハンセンも自分のスタイルとして取り入れるようになる。 後にハンセンはシンとの関係についてこのように語る。 「それまで見たことのないシンのナチュラルな暴れっぷりに、プロとして大きな感銘を受けた。 『ブレーキの壊れたダンプカー』というフレーズは間違いなくシンの影響だ。 後に猪木からNWF王座を奪うことになり、この時初めて俺(ハンセン)は外国人レスラーのトップになったという実感が湧いてきた。 は別格として、シンを超えたことが大きな喜びだった。 俺にとってシンは親友ではないが、大きな存在であったことは間違いない」• シンとハンセンは新日本・全日本通算で10年以上もツアーを同行することになるが、その割にリング内での絡みは非常に少ない。 決して不仲ということではなく、血で血を洗うような惨劇に発展しにくかったのはハンセンのシンに対するリスペクトが大きい。 事実この両者は極めて尖ったキャラクターでありながら、ツアー移動中のプライベートでは一緒に一枚の写真に収まっていることが多い。 かつてメインをとっていた全盛期は、「会場にいる者全てが俺の敵だ、だから俺は観客でもカメラマンでも殴る」と、自身のヒール哲学を徹底的に貫いていたシンだが、体力的な衰えとかつての盟友だった上田馬之助のが転機となり、ファンに愛されるヒールに転向。 リビングレジェンドのイメージが色濃くなった近年は、観客に暴行を加え、それでなおかつファンに敬愛されるという唯一無二のキャラクターを確立している。 プロレスの楽しみ方も多様化し、1970-1980年代のように本気でシンを怖がって逃げるファンは減り、逆にシンに襲われることを一種のステータスと認めている新しい世代のファンが増えている。 1990年代後半からはしばしばサイン会等を行い、ファンとの交流に努めている。 また、らとCDアルバム『愛が地球を救うのだ』を発表し、アニメ『』の主題歌を熱唱したり、バラエティ番組『』にゲスト出演したりと、プロレス以外のメディアでも活躍。 初来日時から関係者でも容易に近付けない雰囲気を放っていたが、実際は電話魔であり大の写真好き。 暇さえあればカメラマンを呼び付けては自身の写真撮影を要求していた。 リングアナは若い頃、新日本プロレスのリング上でプロレスラーに暴行を受けることがしばしばあった。 そのことについて自身のブログで、「シンが僕を襲う場合は悪役としての、プロとしての信念や魂のようなものを感じられた。 シンが襲いに来るか否かは雰囲気で分かるようになったし、襲われると分かっていても僕は逃げなかった。 シンが悪役のプロなら僕はシンに襲われるプロだ。 しかし、の場合は単に殴られ損だったので、すぐに逃げた」と語る。 来日間もない頃は英会話が苦手であり、いわゆるブロークン・イングリッシュで発音していたため、日本人には却って聞き取りやすかった。 ある日本人プロレス記者は、「陽気にペラペラ喋りたてるアメリカンと違い、シンの英語は不思議と誠意が伝わってくる」とも語る。 2007年ハッスルの青森大会辺りから昔以上に凶悪度が増し始める。 青森大会では対戦した選手が瀕死の大流血に陥り、他の大会(主に後楽園ホール)では女性客にサーベルを突き刺したり、OLを椅子で殴るなどの狂乱ファイトに、観客の子供は泣き叫びカップルは逃げ惑い、果ては客席で観戦していたスポンサーのお偉いさんも襲われるなど阿鼻叫喚の往年のシンの世界を展開させている。 また、60を過ぎた肉体にもかかわらず筋骨隆々で100kgを超える選手にいまでもを掛ける。 日本ではシンにブッチャーとザ・シークを加え、「世界三大ヒール」等と称されることが多い。 相手選手を反則攻撃で痛めつけ、凶器で流血させるという全盛期の基本的なスタイルは共通しているものの、三者とも独自のキャラクターをしっかりと築いていた。 ある日本人プロレス記者は、ザ・シークはレスラー仲間から尊敬されるヒール、ブッチャーはファンに愛されるヒール、そしてシンはファンに恐怖を与えるヒールと大別する。 日本における三者の全盛期は多少の差異はあるものの、一般的に1970-1980年代とされる。 この頃、悪の限りを尽くしながらもブッチャーは絶大な人気を誇り、同じくシークは年齢的にピークを過ぎていたものの、としてビジネスをしっかりこなしていた。 同じ頃シンは、既述の新宿伊勢丹襲撃事件を筆頭に観客や記者への暴行等を繰り返し、やがてリングの外でもヒールというキャラクターを貫いた。 ブッチャーやシークは概ね試合中でのみ凶行に及び、リングを降りるとインタビューや写真撮影等に気さくに応じていたのに対し、シンの場合は控え室や移動中等でもファンや関係者をしばしば襲っていた。 その様子がメディアを通じて知られるようになり、唯一無二の恐怖を与えるヒールを確立した。 またブッチャーとシークは、小型の鋭利な凶器で相手を静的に流血させることがほとんどであったが、三者の中で最も若く長身なシンは、小型の凶器からテーブル、テレビカメラの三脚、竹箒、三連パイプイス等と大型の凶器までを動的に使いこなし、リング狭しとスピーディーに暴れるスタイルが特徴であった。 一時は手錠で相手の自由を奪ったり火を放ったりと演出も豊富であった。 この違いについてアントニオ猪木は、「ブッチャーとシークのスタイルは残酷ショーだが、シンはそれと違う」と語る。 息子タイガー・アリ・シンらが幼少期の頃、来日に伴いシンが留守のときは家はジット夫人が守ることとなった。 躾に厳しい母が常駐する一方、久方ぶりにシンが帰国したら幼い息子らをつい溺愛してしまう。 そのため息子アリ・シンらにとっては、「家では母(ジット夫人)が悪役」であった。 ただしケンカに負けて帰ってくると普段は優しい父シンも、「白人のガキどもなんかもっとブッ飛ばせ」と激怒していた。 2018年の時点でも狂人のギミックを守り抜いており、それ故に建前を取っ払った内容にする必要のある自伝を製作・許可しないと言われている。 実際2010年代前半から半ば頃に企画されたものの、断念される結果に終わっている。 得意技 [ ] コブラクロー シンのとも称される技で、フォール勝ちのほとんどをこの技で収めている。 建前上は、指を2本折り曲げてVの字を作った状態でに押し当てて相手を状態に陥れる合法的な技とされるが、実際は攻撃(反則)に過ぎなかった。 しかし、前述の通り創立間もない頃の新日本プロレスは、営業面でシンを看板選手として売り込む必要があり、彼の残虐性と実力とをビジュアル的にアピールすべく、コブラクローを反則としない暗黙の了解があったとされる。 そのため新日本プロレスが名付け親の感が強く、それを嫌ってか、移籍後はこの技を「タイガークロー」と呼ぶ解説者もいた。 他にこの技の使い手はほとんど見られない。 この技の繰り出し方は主に3通りある。 相手がリング中央にいる時 相手を蹴る、あるいは殴る等をして相手が一瞬無防備になった隙に仕掛けるが、あまり決定打にはならない。 相手をロープに振ってで仕掛ける このパターンで多くのフォール勝ちを納めている。 ただし、技に入る直前のモーションが大きく、それを見抜かれて相手にかわされることもしばしばある。 まずロープ際の相手にコブラクローを仕掛ける。 相手はロープを掴むので、はロープブレイクを宣言するがシンはそれに応じない。 この時点で反則には違いないので、完全なチョーク攻撃へとシフトする。 反則負けとされるカウント5の直前に、一瞬手を緩め、反則カウントをリセットさせ、またチョークを仕掛ける。 これを繰り返している間に、自然と両者は徐々にの外へと移動し、やがてへ達する。 次に、エプロンからはみ出た相手の頭部を、さらに下方の場外へと向けて締め下ろし、同様に反則カウント5をとられないようにこれを繰り返し、最終的に相手が場外へ落ち、直後に場外乱闘へと発展する。 本来の意味での「脳天砕き」とは異なり、相手を大きく後方に投げる技ではあるが、しばしばこれで勝ちを収めている。 ただしがあまり上手くないシンは、自身の頭部もダメージを受けることを避け、1980年代からはブレーンバスターの姿勢で相手を担ぎ上げ、気味に投げるスタイルが多く見られた。 相手の足を4の字に固める技。 正統派の時、グランドの攻防で時折使っていた。 レッグシザース 「首4の字固め」ともいう。 相手の首から顎にかけ、自身の足を4の字に固める技。 自身のスタミナを回復出来るメリットがあり、試合中盤によく使っていた。 攻撃 トレードマークの、を筆頭に客席のパイプ椅子攻撃が特筆される。 従来はほとんどのレスラーがパイプ椅子を畳んだ状態で広く平面的に殴っていたのに対し、シンは鋭利な部分で突きピンポイントにダメージを与える新たな方法をとった。 は柄の部分で相手を殴ることがほとんどで、剣先で刺したレスラーは大仁田厚他数えるほどしかいない。 また猪木にサーベルを奪われ、自身が剣先で刺されたこともある。 解説者が「何でも凶器にする」と言う通り、使用したアイテムは上記に加えビール瓶、三連パイプイス、テーブル、スパナ、木槌、ゴング、チャンピオンベルト、傘、ヘルメット、空き缶、脚立、ほうき、バケツ、チェーン、縄、ジュラルミンケース、リングロープ、タッチ用ロープ、フォーク、スプーン、靴、泥、石灰、鉄柱、アジャスター金具、場外フェンス、タオル、ポール、折り畳みの腰掛等と多岐に渡る。 反則技(凶器を使わない) 目潰し、噛み付きといったそれまで良く知られていた反則技に加え、攻撃が特筆される。 試合中、自身が追い込まれ防戦一方と見せかけて、レフェリーの死角をつき、油断した相手の股間に一撃を加え一瞬で攻防を逆転させることがしばしば有った。 1975年に猪木からギブアップを奪った、シンの隠れたフィニッシュ・ホールド。 エピソード [ ]• 上田馬之助とタッグチームを組んでいた頃、劇場でサモアンズ1号・2号に「踊り子に手を出すな」と注意したことでトラブルになり、劇場外の交差点の真ん中で2対2の乱闘を繰り広げた。 新日本プロレスに参戦する前に「ヒンズー・ハリケーン」のを使用した時もある。 シンは怖いレスラーの象徴であり、ファンに恐怖心を与えていたがゆえに警察にも何度か世話になっている。 初めに警察に通報されたのはテレビを見た視聴者からであった。 サーベルのことを「あんな危険なものを使わせていつも猪木さんや坂口さんが血まみれにされているから取り締まることはできないのか」という通報を受けて、新間寿と共に警視庁に呼ばれて本部に行ったことがある。 そして2度目はサーベルを持ってくるように言われ、新間は警官にサーベルを見せて「切っ先は尖っているわけではなく、人を刺すためのものではない。 タイガーがサーベルを使う時は、柄の部分で攻撃をする。 刺したり、切ったりが目的ではないことは、テレビを見ていればわかるでしょう」と説明した。 新宿伊勢丹事件における四谷警察署の対応は、もし猪木が告訴するのであれば10人がかりで逮捕しに行くとしていたが、新間は「で双葉山を逮捕に行った警察官が何人だったか知っていますか? 20人以上ですよ」と警察に返答した。 1970年代半ばの新日本プロレスは、シンを中心に回っていると言っても過言では無かった。 事実シンが登場する興行は飛ぶように売れ、新日本プロレスはシンが登場しない興行との抱き合わせ販売もした。 またがシンを介して様々な手法で新日本プロレスに揺さぶりをかけたかのように見せ、当時はマイナーなタイトルだったNWFのベルトやタイトル戦の付加価値を高めた。 新日本プロレス時代、『』の放送局であるには毎週のようにシンの狂乱ファイトに抗議する電話が寄せられ、テレビ朝日に10台ある電話全てがパンクしたという。 抗議電話の中には、「テレビ朝日の社長を出せ」といった内容もあったという。 テレビ朝日はやによる調査の他にもこの抗議電話も視聴率の指標とし、抗議電話の回数が多かった場合はすぐに高視聴率であると判断していたという(シンが参戦したシリーズにおける視聴率発表日は、1977年「アジアチャンピオンシリーズ」までは放送の翌週、「'78新春黄金シリーズ」以降は放送の翌日に発表)。 既述の新宿伊勢丹事件の際、タクシーのボンネットをへこまされたタクシー会社は新日本から弁償の申し出を受けると「弁償なんてとんでもない。 ウチはいまみんなで、これは面白いからって猪木さんにサインでもしてもらって、ボンネットをどこかに残していこうという話をしていたんです」と返し、2〜3日後に新日本の関係者はサインとグッズを持ってタクシー会社を訪問し、事態は丸く収まった。 ミスター高橋によると既述の「腕折事件」以後、骨折していることを装うため帰国までシンの右腕に包帯を巻き続けることを提案した。 何日も同じ部位を覆っていたため後に腕の皮膚が炎症を起こしたが、シンは帰国までこれを実行したという。 今では当たり前のように見られるリング外の場外フェンスは、1980年から新日本プロレスがシン対策(観客の安全を確保するため)として常設したのが最初である。 フェンス設置直後は、オーバー・ザ・フェンスなる新ルールが設けられた(相手選手をフェンスの外に出せば反則負け)。 これにより場外乱闘の行動半径が狭められる格好となったが、代わりにシンはフェンス目掛けてパイプ椅子を投げつける、通称「イス投げ」というムーブメントを確立した。 1979年8月26日、社主催「」で、ファン投票で1位に選ばれたメインカードが、シン・ブッチャー組対猪木・馬場組であった。 対戦前は「俺がブッチャーと組むくらいならむしろ猪木と組んで、ブッチャー・馬場組と対戦してやる」と、ブッチャーとのコンビを露骨に拒否したが、後年「あのオールスター戦のことはよく覚えている。 もしメインが、対馬場・猪木であれば、全日本プロレスの色が相当濃かっただろう。 それを押さえて俺(シン)を含めたカードが1位で、しかもメインをとったことは今でも誇りに思う」と語っている。 ちなみに馬場は引き分けで終わることを望みそれで予定はほぼ決まっていたが、試合直前に猪木から馬場へ電話があり、「俺(猪木)とシンで話がついたから」と語り、結果はシンのピンフォール負けであった。 新日本参戦時の試合中に、サラリーマンとおぼしき観客に傘で殴りかかられたことがある。 その際には徹底的な制裁を加え、続行中の試合実況において「先ほどのお客さんは病院に搬送されました」というリポートがあった。 ただし実際の負傷の程度、賠償の有無等は不明である。 ある会場で試合前に狂人ギミックで暴れていたところ、癇に障った山本小鉄らがシンをロープで縛り上げ、そのまま控え室に放り込まれたことがある。 入場テーマ曲は「サーベルタイガー」で、新日本プロレス時代から現在のハッスル迄、彼の主戦場で流されている。 ただし全日本プロレスでは、「」()が使用された。 全日本プロレスにおいてこの曲は、いわゆる「(の選曲による)凶悪レスラーの入場曲」という扱いであり、特に誰のテーマ曲とは決まっていなかったためである。 ちなみにシン対ザ・シーク、シン対ブッチャーが実現したときは、双方の入場時にこの曲が流された。 1979年、が家族と共にアメリカへ移住するため飛行機に乗っていた時、栗栖の赤ちゃんがなかなか泣き止まないことがあった。 たまたま同じ便に乗り合わせていたシンは、「私(シン)は長距離の移動は慣れているし、うちにも同じ年頃の赤ちゃんがいる。 」と言って栗栖の赤ちゃんを抱きかかえ、そのままベビーシッター役を引き受けた。 栗栖はシンに深く感謝し、その出来事をずっと忘れずにおり、実際、1990年にシンが新日本プロレスに戻って来たときには栗栖は恩返しとばかり「イス大王」としてシンに加担した。 新日本プロレス時代にはサーベルは新日本側で準備していた。 全日本プロレス熊谷大会に乱入した際、凶器はサーベルではなく、モップの柄を所持していた。 全日本参戦初日に自費でサーベルを購入している。 アブドーラ・ザ・ブッチャーの新日本プロレス移籍の第一報を伝えたのはテリー・ファンクであった。 トロントの自宅にいたシンにテリーが電話で移籍の旨を伝え、シンはすぐさま折り返し新日本プロレスに確認の電話をした。 インド人コミュニティーが存在する南アフリカでプロレスのブッカーをしていたこともある。 1987年、全日本プロレスにオファーを出し、ジャイアント馬場はそれに応えてをブッキングした。 ハル薗田とその妻は新婚旅行も兼ねて南アフリカに向かったが、その往路、に遭遇し不帰の客となった。 この時ばかりはシンも沈痛な面持ちで、マスコミのインタビューには背広姿で現れ、「ソノダと彼のワイフをこの様な事故で死なせてしまったことは大変申し訳ない」「彼(ソノダ)はとても良い友人でした」と、普段のギミックからは想像も付かない様な真摯な対応を見せた。 その姿はヒール姿しか知らぬ日本のプロレスファンに、薗田の事故死とはまた別の意味で大きな衝撃を与えることになった。 薗田夫妻の事故死はもちろんシンには何ら責任はないものであるが、その『償い』として犬猿の仲であるアブドーラ・ザ・ブッチャーと地上最凶悪コンビを結成し、全日本プロレスの興行に貢献したとされる。 とはいえ、この一件も大きなきっかけとなってシンのヒールキャラクターがあくまでギミックであることが明らかとなり、その後のシンのキャラクター性はヒールの内であっても大きく変化してゆくことになる。 それまで悪役として対戦相手(のみならず観客までも)を痛めつけることに終始していたシンが、ほどなくしてブッチャーと仲間割れよりコンビを解消した。 これを機に一転して如何にブッチャーより人気を得るかにシフト、観客からシンコールを受けることになる。 『』において、シンから譲り受けたサーベルに40万円の鑑定額がついたことがある。 巡業中、で飲んで上機嫌になったシンと外国人レスラー数名が、悪戯に近くに停めてあった車数台をひっくり返し、本当に警察沙汰になったことがある。 巡業中、すし屋へ行って「金魚を握ってくれ」と言ったことがある。 が苦手であるにもかかわらず、上田馬之助によって前の蛇料理店や、まむしラーメンで名高いミスター高橋経営のラーメン店に連行された。 リングネームは、日本語では一般的に「タイガー・ ジェット・シン」と表記されるが、東京スポーツだけは1990年代中期辺りから「タイガー・ ジット・シン」と表記している。 そうした旨の申し入れがシン本人からあったため、以降は「ジット」と表記するようになったという。 1994年7月8日付東京スポーツ1面トップで「シン7万円(1,000カナダドル)詐欺逮捕」と報じられる。 同紙、並びに『紙のプロレス』第11号で本人は全面否定。 地元では慈善事業家としての一面もありこちらでの評価も高く、2010年9月に自身の名前を冠したが、ミルトンに開校した。 来日外国人レスラーの中で、日本でタッグを組んだことがある日本人選手の数では最多級である。 短いながらもFMWで活躍していた時期があったため、女子プロレスラーとも縁がある。 [ ]とカレーの早食いマッチが実現した。 シンは辛いものが苦手であるが、対決の最中はそのような弱みを一切見せずこれに勝利した。 [ ]がを凶器にヒールとして活躍していた頃、自身を「女タイガージェットシンと呼んで下さい」とアピール。 獲得タイトル [ ]• :1回• :1回• :1回• アジアヘビー級王座(新日本プロレス版):1回• 001 1973年5月、新日本 ゴールデンファイトシリーズ• 002 1973年10月、新日本 闘魂シリーズ第2弾• 003 1974年5月、新日本 ゴールデンファイトシリーズ• 004 1975年2月、新日本 ビッグファイトシリーズ• 005 1975年5月、新日本 ゴールデンファイトシリーズ• 006 1976年1月、新日本 新春黄金シリーズ• 007 1976年7月、新日本 アジアリーグ戦• 008 1977年1月、新日本 新春黄金シリーズ• 009 1977年4月、新日本 第4回ワールドリーグ戦• 010 1977年6月、新日本 アジアチャンピオンシリーズ• 011 1978年1月、新日本 新春黄金シリーズ• 012 1978年8月、新日本 ゴールデンファイトシリーズ• 013 1979年2月、新日本 ビッグファイトシリーズ• 014 1979年7月、新日本 サマーファイトシリーズ• 015 1979年8月、新日本 ブラディファイトシリーズ(8. 26夢のオールスター戦含)• 016 1979年10月、新日本 闘魂シリーズ• 017 1980年6月、新日本 サマーファイトシリーズ• 018 1980年10月、新日本 闘魂シリーズ• 019 1980年11月、新日本 第1回MSGタッグリーグ戦• 020 1981年1月、新日本 新春黄金シリーズ• 021 1981年3月、新日本 WWFビッグファイトシリーズ• 022 1981年4月、新日本 WWFビッグファイトシリーズ第2弾• 023 1981年5月、新日本 第4回MSGシリーズ• 024 1981年7月、全日本 サマーアクションシリーズ• 025 1981年10月、全日本 ジャイアントシリーズ• 026 1981年11月、全日本 世界最強タッグリーグ戦• 027 1982年5月、全日本 エキサイトシリーズ• 028 1982年7月、全日本 サマーアクションシリーズ• 029 1983年1月、全日本 新春ジャイアントシリーズ• 030 1983年2月、全日本 エキサイトシリーズ• 031 1983年7月、全日本 グランド・チャンピオン・カーニバル• 032 1983年11月、全日本 83世界最強タッグリーグ戦• 033 1984年5月、全日本 グランド・チャンピオン・カーニバル2• 034 1984年11月、全日本 84世界最強タッグリーグ戦• 035 1985年1月、全日本 85激突! オールスターウォーズ• 036 1985年5月、全日本 85激震! サンダーウォーズ• 037 1985年8月、全日本 85決戦! ダイナマイトウォーズ• 038 1986年2月、全日本 エキサイティングウォーズ86• 039 1986年5月、全日本 スーパーパワーシリーズ• 040 1986年8月、全日本 86サマーアクションシリーズ• 041 1986年10月、全日本 86ジャイアントシリーズ• 042 1987年1月、全日本 87新春ジャイアントシリーズ• 043 1987年5月、全日本 87スーパーパワーシリーズ• 044 1987年10月、全日本 87ジャイアントシリーズ• 045 1988年3月、全日本 88チャンピオン・カーニバル• 046 1988年5月、全日本 88スーパーパワーシリーズ• 047 1988年11月、全日本 88世界最強タッグリーグ戦• 048 1989年9月、全日本 ジャイアントシリーズ• 049 1989年11月、全日本 89世界最強タッグリーグ戦• 050 1990年5月、全日本 スーパーパワーシリーズ• 051 1990年9月、新日本 9. 052 1990年10月、新日本 10. 053 1990年12月、新日本 12. 26キングオブキングスIN浜松アリーナ• 054 1991年2月、新日本 スーパーフェブラリィ91• 055 1991年3月、新日本 3. 21 91スターケードIN闘強導夢• 056 1991年7月、新日本 サマークラッシュ91• 057 1991年10月、新日本 SGタッグリーグ戦• 058 1991年12月、新日本 12. 18巌流島• 059 1992年3月、新日本 3. 1超戦士IN横浜アリーナ• 060 1992年6月、FMW 果てしなき闘い• 061 1992年7月、FMW 「原点への旅立ち」• 062 1992年8月、FMW 血と汗の闘い• 063 1992年9月、FMW 9. 19FMW3周年記念興行「邪道」• 064 1992年11月、FMW 世界最強ストリートファイトタッグリーグ〜生きざま〜• 065 1993年3月、FMW 歴戦の国・北に!! 066 1993年5月、NOW BATTLE HUNTER93• 067 1993年6月、NOW THE GREAT BATTLE93• 068 1993年7月、NOW BATTLE FEVER93• 069 1993年8月、NOW RENOVATION POWER93• 070 1994年2月、NOW NOW-SPIRITS• 071 1994年4月、NOW ネットワーク・オブ関東94• 072 1994年11月、平成維新軍 11・13平成維震新軍オープニング・マッチ• 073 1994年12月、平成維新軍 平成維震軍オープニング・マッチII• 074 1995年10月、IWA UNDER FIRE〜戦士たちの宴〜• 075 1995年11月、IWA 2ND YEAR FINAL BATTLE〜NWA世界タッグ・リーグ戦〜• 076 1996年1月、IWA NEW YEAR96〜BOUND TO BREAK〜• 077 1996年4月、IWA GET THE GLORY TOUR96〜栄光をつかめ〜• 078 1996年7月、IWA AGGRESIVE WARRIORS TOUR96〜超戦士西上〜• 079 1996年11月、冴夢来 冴夢来プロジェクト11月シリーズ• 080 1997年4月、冴夢来 闘史回天第2章• 081 1997年7月、冴夢来 冴夢来97夏の陣• 082 1999年9月、IWA GREATFUL TOUR99• 083 2001年11月、IWA HAPPENING HERE 2001• 084 2002年3月、IWA JAPAN SPRNIG BRREZE TOUR 2002• 085 2002年7月、IWA JAPAN CAUTION SHINY SUMMER 2002• 086 2002年9月、IWA JAPAN 8TH ANNIVERSARY SPECIAL!! 087? 2004年10月、ハッスル• 088? 2007年3月、ハッスル• 089? 2007年4月、ハッスル• 090? 2007年5月、ハッスル• 091? 2007年6月、ハッスル(元野球選手と対戦)• 095? 2008年8月、ハッスル(と対戦) タイトル戦歴・名勝負等 [ ] 認定世界ヘビー級選手権• 1980年4月13日 ・エル・トレオ・デ・クアトロ・カミノス (無制限三本勝負) アントニオ猪木 対 挑戦者タイガー・ジェット・シン 1 シン(首四の字固め 12分33秒)猪木 2 猪木(卍固め 5分43秒)シン 3 猪木(反則勝ち 4分00秒)シン• 1980年7月17日 東京・ (61分一本勝負) アントニオ猪木 対 挑戦者タイガー・ジェット・シン 猪木(体固め 12分2秒)シン• アジア・タッグ選手権• 1976年8月4日 仙台・ (60分3本勝負)(新タイトル王座決定戦) 坂口征二 ストロング小林組 対 タイガー・ジェット・シン ガマ・シン組 1 坂口(逆エビ固め 12分58秒)ガマ 2 シン(体固め 9分21秒)小林 3 小林(体固め 2分06秒)ガマ• アジア・ヘビー級選手権• 認定北米タッグ選手権• 1975年3月18日 名古屋・ (60分三本勝負) アントニオ猪木 坂口征二組 対 挑戦者タイガー・ジェット・シン マイティ・ズール組 1 坂口(両者リングアウト 18分20秒)シン 2 猪木(背骨折 2分16秒)ズール• 1976年2月5日 札幌中島スポーツセンター (60分三本勝負) 坂口征二 ストロング小林組 対 挑戦者タイガー・ジェット・シン ブルータス・ムルンバ組 1 シン(体固め 7分19秒)小林 2 小林(体固め 5分18秒)ムルンバ 3 坂口(リングアウト 4分03秒)シン• シン組が王座初防衛。 1978年2月2日 札幌中島スポーツセンター (60分三本勝負) 坂口征二 ストロング小林組 対 挑戦者タイガー・ジェット・シン 上田馬之助組 1 坂口(エビ固め 12分00秒)上田 2 上田(片エビ固め 6分59秒)坂口 3 坂口組(反則勝ち 3分27秒)シン組• 1978年9月13日 熊本市体育館 (60分三本勝負) 坂口征二 ストロング小林組 対 挑戦者タイガー・ジェット・シン ジンバ・カーン組 1 小林(首固め 12分43秒)カーン 2 シン(体固め 1分36秒)小林 3 坂口(体固め 3分03秒)カーン• 1979年9月28日 名古屋・愛知県体育館 (60分三本勝負) 坂口征二 長州力組 対 挑戦者タイガー・ジェット・シン 組 1 長州(体固め 8分01秒)斉藤 2 斉藤(体固め 2分15秒)長州 3 坂口組(反則勝ち 2分12秒)シン組• 1979年11月16日 沖縄・奥武山体育館 (60分三本勝負) 坂口征二 長州力組 対 挑戦者タイガー・ジェット・シン マサ斎藤組 1 坂口組(反則勝ち 9分01秒)シン組 2 斉藤(体固め 0分55秒)長州 3 長州(体固め 0分37秒)斉藤• 1980年10月30日 熊本市体育館 (60分三本勝負) 坂口征二 長州力組 対 挑戦者タイガー・ジェット・シン 上田馬之助組 1 シン(コブラクロー 9分47秒)長州 2 坂口組(反則勝ち 3分19秒)シン組 3 長州(体固め 4分15秒)上田• 認定北米ヘビー級選手権• 認定ヘビー級選手権 (1975年8月29日付でNWF認定世界ヘビー級選手権から改称)• 1974年6月20日 東京・蔵前国技館 (60分三本勝負) アントニオ猪木 対 挑戦者タイガー・ジェット・シン 1 猪木(卍固め 20分51秒)シン 2 猪木(反則勝ち 1分21秒)シン• 王位が空白となった。 1976年8月5日 東京・蔵前国技館 (時間無制限一本勝負) アントニオ猪木 対 挑戦者タイガー・ジェット・シン (両者リングアウト 9分43秒)• 1977年2月10日 東京・ (時間無制限一本勝負) アントニオ猪木 対 挑戦者タイガー・ジェット・シン 猪木(リングアウト 22分55秒)シン• 1978年2月3日 札幌・中島スポーツセンター (時間無制限一本勝負) アントニオ猪木 対 挑戦者タイガー・ジェット・シン 猪木(リングアウト 21分13秒)シン• 1978年9月21日 東京・・ゴールドホール (61分一本勝負) アントニオ猪木 対 挑戦者タイガー・ジェット・シン 猪木(体固め 25分37秒)シン• 1979年4月5日 (時間無制限一本勝負・) アントニオ猪木 対 挑戦者タイガー・ジェット・シン 猪木(体固め 20分21秒)シン• 1979年8月10日 アメリカ・オリンピック・オーデトリアム (時間無制限一本勝負) アントニオ猪木 対 挑戦者タイガー・ジェット・シン (両者リングアウト 7分03秒)• 1979年10月4日 東京・蔵前国技館 (時間無制限一本勝負・インディアンデスマッチ) アントニオ猪木 対 挑戦者タイガー・ジェット・シン (無効試合 20分22秒) 認定選手権• 脚注 [ ] []• ・2009年3月29日付 「のプロレススーパースター実伝」第47回(当時の為替レートで約2500万円ほど)• 3月ににて• 『週刊プロレスSPECIAL 日本プロレス事件史vol. 2』P60(2014年、)• 8』P13 - P14(2015年、)• グレーテスト18クラブが設立された直後は猪木が同タイトルの一切の権限を持っていたが、すでにセミリタイヤの状態であった猪木はこれを長州力に譲った。 シンは自分より格下としか認めていない長州の下のメンバーであることが癇に障り、長州やその周辺に対する凶行を重ねたため、後に除名されることとなった。 正月の興行において、メインはシン対猪木であることが早々に決まったが、これに対してが「一線を退いた者同士ではなく、俺 馳 と戦ってほしい」と猪木にアピールする。 猪木は自分の一存では決められないため、馳にシンと直接交渉することと伝えた。 馳はカナダのシンの自宅を訪問したが、シンに暴行を受け池に落とされた。 話し合いでは結論が出ないため新日側は、巌流島で戦って勝った方を猪木の対戦相手とすることとした。 同決戦においては先にシンが馳を大流血に追い込んだが、馳の凶器で滅多打ちにされたシンが自身最大級の流血に見舞われ、リング内でKO負けした。 新間寿の我、未だ戦場に在り! <獅子の巻>』(ダイアプレス、2016年)p84-85• 猪木自身は「腕を折った」と明言しているが、実際にはヒジもしくは肩の亜脱臼だという。 自身の著書にて。 ミスター高橋『知らなきゃよかった プロレス界の残念な伝説』宝島社、2018年。 16-17• ミスター高橋『知らなきゃよかった プロレス界の残念な伝説』宝島社、2018年。 30-31• 山本小鉄は近年のコラムで、この技の合法性に関し「あれは紛れもなく反則。 だから自分がレフェリーに転身後は、あの技に対し厳しく反則をとった」などと語っている。 『週刊プロレスSPECIAL 日本プロレス事件史vol. 2』P29 - P30(2014年、))• 東京スポーツ2010年3月11日付7面記事• 上田馬之助、マサ斎藤、ラッシャー木村、鶴見五郎、阿修羅原、ザ・グレート・カブキ、キラーカーン、アントニオ猪木、栗栖正伸、剛竜馬、安生洋二、ゴージャス松野等• Wrestling-Titles. com. 2010年4月5日閲覧。 Wrestling-Titles. com. 2013年8月7日閲覧。 Wrestling-Titles. com. 2013年8月7日閲覧。 外部リンク [ ]• - ハッスル• (英語)• (英語)• (英語)• (英語)• (英語).

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