追悼の森。 ポーランド空軍Tu

追悼!

追悼の森

祈りの杜 福知山線列車事故現場 について 2005年4月25日、私たちは、福知山線において、106名のお客様の尊いお命を奪い、500名を超える方々を負傷させるという、極めて重大な事故を惹き起こしました。 お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈り申し上げますとともに、ご遺族の皆様、お怪我をされた方々とそのご家族の皆様に深くお詫び申し上げます。 また、周辺にお住まいの方々をはじめ、多くの方々に大変なご迷惑をおかけいたしましたことを心よりお詫び申し上げます。 あわせまして、警察、消防、自衛隊、医療機関、周辺企業、自治体や地域の方々など、救急・救助活動にご尽力いただいた皆様に深く感謝申し上げます。 事故現場は、お亡くなりになられた方々のご無念、ご遺族様のお悲しみ、また、お怪我をされた方々のお辛い記憶などの様々なお気持ちや、列車が脱線し衝突した痕跡など、事故の事実が残る非常に大切な場所でございます。 この「祈りの杜」は、お亡くなりになられた方々の慰霊・鎮魂の場として、また、将来にわたり事故の痕跡を保存し、事故を決して風化させることなく、いのちの大切さを社会や後世に伝え続けていく場として、そして私たちが事故を反省し、安全を誓い続けていく場として、整備しております。 将来にわたり、この場所を、私たちが責任を持って大切にお守りし続けるとともに、「福知山線列車事故のような事故を二度と発生させない」との変わらぬ決意のもと、社員一人ひとりがこの事故を心に刻み、鉄道の安全を追求し続けてまいります。 祈りの杜 各所のご案内 事故現場には、お亡くなりになられた方々の慰霊・鎮魂の場として、慰霊碑を設けております。 また、事故を決して風化させぬよう、列車がマンションに衝突した痕跡が残る部分を中心に、列車が脱線してからマンションに衝突するまでの空間や、懸命な救急・救助活動の行われた場所を保存しております。 慰霊碑の傍らには、事故の概要、弊社としてのお詫び、反省と安全の誓いを記しております。 資料室には、事故直後の写真やこの事故に関する報道や出版物などの資料がございます。 ただし、荒天時など臨時に閉場させていただく場合がございます。 アクセス 〒661-0977 兵庫県尼崎市久々知3丁目27-30.

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京都大学新聞社/Kyoto University Press » 【特集】追悼・森毅 橋本聡 朝日新聞ヨーロッパ総局長 「飄々、『イジケの論理』の名物教授」(2010.10.01)

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同じ捕手として現役時代から交流を深め、'92年、'93年の日本シリーズでは球史に残る激闘を繰り広げた野村と森。 ライバルであり盟友でもある知将が、在りし日の姿を偲ぶ。 野村さんとはもう60年以上のつき合いになるんだね……。 なにしろ、沙知代夫人と一緒になるよりも前のことだからさ。 僕が巨人、彼が南海だった現役時代には日本シリーズ前に対戦相手の情報提供をお願いしたこともありました。 その頃から、お互いの野球観に惹かれる部分があったし、その後のつき合いの中で、ますます相通じる部分が深まっていったような気がするな。 訃報を聞いたのは、僕の住むハワイ時間で2月10日のお昼過ぎ。 ニュースで知りました。 最近の病状は知らなかったけれど、彼が多くの本を出版したり、テレビに出演したりしているのは知っていたから、「まさか……」という思いだった。 でも、その反面では「やっぱりか……」という思いもあったな。 というのも、あの人は全然自分で動こうとしないし、自宅でも車椅子に乗っていることを聞いていたので、「もっと運動をしなくちゃダメだよ」って、ことあるごとに言っていたのでね。 野村さんに最後に会ったのは2年前、2018年2月、ジャイアンツとホークスのOB戦でした。 このときは試合翌日の朝、ホテルで2時間くらい二人きりで話をしました。 野球のこと、お互いの近況、社会情勢について、いろいろなテーマが話題でした。 これは僕らにとってはいつものこと。 だって、僕たちは野球に限らず、さまざまな話ができる唯一の間柄だから。

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森英樹

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森毅先生の講義を初めてのぞいたのは1975年の5月のことだ。 教養部でいちばん大きかった教室に定刻にいくと、すっかり満席になっていた。 おおぜいの立ち見客が壁にへばりついている。 年度始めだから、受講登録した新入生の大半がようすを見にきたのだろう。 文学部1回生の私もそのひとりだった。 森先生は青いジーパンで登壇した。 ホホウというように教室の盛況を見渡し、苦笑をこぼして、こんな話をはじめた。 しかたないから、レポート試験をするんやが、たくさん読まされるこっちに身にもなってほしい。 けっこう重労働なんやで。 講義に出る出ないは自由やが、愚にもつかんレポートを書いて単位だけよこせというのは甘すぎる。 センセを楽しませるレポートを書くのも学生さんの芸や。 どうすればこっちが気持よく単位を出せるか、そっちも知恵しぼってくれな、困るなあ。 森先生流の「新入生心得」とでもいうべきか。 大学ともなれば、高校のように教師と生徒が上下の一方通行でなく、双方向であるべきだ。 いやじつは、そんなカタクルシイことではなく、ただたんに、最近は学生さんの「芸」の質が落ちたという嘆き節だったのかもしれない。 テレビの深夜番組「11PM」で洒脱なコメントを披露していた森先生は、京都大学新聞の常連寄稿者だった。 編集部に入った私は、コラム「複眼時評」執筆のおねがいなどでときおり教官室をたずねた。 数学の講義に出たのはあの一回きりだったが、学内で出会うとよく立ち話をした。 「先生、こんど、お酒でものみにいきませんか?」 「それがな、ぼく、お酒のまれへんのや」 意外だった。 聞けば、若いころは人なみにたしなんでいたそうだ。 ところが北海道大学で助手をしていたころ、学生とビール工場見学か何かでしこたま飲み放題をやって、ひどい目にあった。 それ以来、体がアルコールを受けつけなくなったという。 「でも、ぼくはお酒のまんでも、昼間から酔うとるのと同じやから」 そういいながら、自宅で晩御飯をごちそうしてくださった。 最近は学生さんとのつきあいが減ってなあ、と話されたのを覚えている。 学生とのつきあいがいちばん深かったのはおそらく1969年、京大闘争のバリケードの時代だろう。 そのころ「よりごのみせず」、いろんなセクトの学内集会をのぞいてまわったそうだ。 私よりだいぶ上の世代の話である。 東京でバリケードの季節が終わりを告げたあとも、京都では毎年、学生ストがつづいていた。 時計台には大きく「竹本処分粉砕」の白ペンキの文字がおどっていた。 団交や集会をのぞきにきた森先生は自称「団交評論家」。 ドアのかげにいるところを見つけて声をかけると、ウヒョヒョヒョヒョとうれしそうに笑った。 橋本クン、意外に人がたくさん集まっているなあ。 某セクトOBの誰それから久しぶりにあいさつされたで。 このセンセ、いろんなふうに大学を楽しんでるなあと思った。 やがて京都でも学生ストが途切れるときがくる。 森先生はこんな原稿を寄せくれた。 《昨年は、まったく例外的にも、当局流の表現では「平穏な」、たとえばストもなく試験も流れない、といった奇妙な1年であった。 じつはぼくは、昨年度は当局側の学生対策係をしていたので、このことに強いセキニンを感じ、今年は昨年のような異常な年でなく、賑やかな年になるだろうと期待している。 》(1977年4月16日付京大新聞、『新入生への私的オリエンテーション』) 森先生の真骨頂は「弱虫」の視点、「イジケの倫理」だった。 建前の論理を声高にとなえる「強者」にはついていけない。 一歩さがってイジイジ観察していると、彼らの本性が強がりでしかなく、ほんとは臆病であることがみえてくる。 世の中、すっぱり割り切れないことのほうが多い。 割り切れないから、ひとは迷う。 迷い、悔み、イジケる。 へんに割り切ろうとしないほうが、イジイジしているほうが、自然なのだ。 迷いやイジケは人生の彩りであり、人生をオモロクしてくれる。 森先生のペンは原稿のテーマが何であれ、いつのまにか人生論のフィールドに入っていった。 《ぼくの青年期というのは太平洋戦争から朝鮮戦争にかけて。 前者の忠君愛国少年のヒロイズムも、後者の反米愛国青年のヒロイズムも、ともに性に合わなかったものだ。 その意味では、パレスチナ闘争の戦士たちが、そのヒロイズムを自己批判したことは、まことに気に入っている。 ここでも公安に怯えてことわっておくと、彼らとのつきあいは、数学チームと赤軍チームとでブリッジの試合を闘った程度にすぎないのだが。 (中略)それでぼくは、いつでも日蔭の逃亡者たちの味方でありたい。 竹本君も評議員諸氏も、永遠に逃亡を続けることを、願ってやまない。 海路平安に、そして決して、機動隊とともに胸を張って出てくるような、はしたないことのないように。 》(1977年10月16日付京大新聞『複眼時評』) ある方向に大勢が流れるとき、あらがって別なことをいうのは相当なエネルギーがいる。 森毅先生はむろん、先頭で旗をふるわけではなかった。 だが、飄々として温かく、ユーモラスな語り口にくるみながら、批評のきっさきは鋭かった。 それをささえたのは博覧強記、膨大な読書量だった。 世間の常識にアンチテーゼをかかげ、不思議な平衡感覚もそなえて、学問より人生というものを語ってくれた。 なんとも京都らしい、稀代の名物教授であった。 はしもと・さとし 朝日新聞ヨーロッパ総局長.

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